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現代人は見逃してしまう、かつての誰かが見出した自然

友人から薦めてもらい、『日日是好日』という茶道エッセイを読んだ。

印象深いエピソードは数あれど、その中のひとつが雨の音にまつわる話だ。

茶室で時間を過ごすうちに、筆者は季節ごとに雨の音が変化することに気づいたのだという。

ここまでは、僕にも共感できるところだった。

春の雨と夏の雨は違う。
同じように秋の雨も、冬の雨(温暖化の影響を感じてしまうところなので、雪のほうが多く降ってほしいものだが)も違う。

建物の壁に当たる音、空気を揺らす音、風の温度、その他もろもろ。

だがここから先は僕の理解を超えた。

雨の違いは単純に四季で分割できるものではなく、感覚が鋭くなった耳で聞き分けると二十四節気と合致するのだという。

僕は二十四節気が分からない。これまで「四季で良いんじゃないか……?」と思ってきた。七十二候なんてのもあるが、多少の興味を持ったことはあっても全く覚えられなかった。生活実感としての認識ができてこなかったからだろう。


以前SNS上で、ディズニー映画「ピノキオ」の海の描写が細かくてすごいと褒め称える投稿を見かけた。
クジラと戦う場面でしぶく波はとんでもない枚数のセル画でできているらしく、一時停止してつぶさにみていくと葛飾北斎の富嶽三十六景にも似たカットがたくさん見られるのだとか。

波にこだわって作画したディズニー社もすごければ、カメラもアニメもなかった時代に微細な波を紙の上に描き出した北斎もすごい。どんな動体視力してる……? と驚嘆していた投稿のトーンを、ピノキオや富嶽三十六景を見かけるたびに思い出すようになった。


さらにはこういうこともあった。

10年ほど前に和柄集めに凝った時期があり、和柄の名前を調べたり和柄の布や折り紙を買い集めたりしていた。
中でもお気に入りだったのは「青海波」と呼ばれる紋様。元は演目の名前から来ているらしいが、和柄の名前としては、無限に続く波の重なりを表現したような模様である。
僕は波が青海波のような模様に見えたことはなかったので、「ふうん、昔の人たちにはこういうふうに見えていたのだろうか」程度に思っていた。

ところがである。ある日浴室でシャワーを流していたら、シャワーが床に当たって描き出す模様が波紋と波紋の重なりーー青海波を描き出していることに突然気がついて目を見張った。
時間は止まってはくれず、描かれた青海波は見えた側から消えていく。連続的シャワーの水は位置を微妙に変えながら青海波を描き続ける。僕は腑に落ちるように空想した。

きっと昔の人は、水面に落ちる雨を見つめてこの模様を見出したのだ、と。
この空想が正確かどうかは知る由もないのだが。



技術と歴史のある町工場が閉鎖していく。環境は変わっていく。現代人は忙しくなっていく。
窓辺から雨を眺めたのは一体いつだったろう。暑さに愚痴をこぼす以外に季節に言及したのは?
そんなことを考え始めると、現代とはいかに「自然を眺める」以外のタスクと娯楽に追い立てられていることだろうと驚いてしまう。星空の見づらい都会の空の下では、新しい星座など生まれようもないのではないだろうか。

文明の進行を、ひとくちに悪いことだとは思わない。

けれども「より便利に」「より効率的に」「成長、成長」と突き進む大きな流れに揉まれて、顧みられなくなった細やかなことがもっとたくさんあったのではないか。
それをなかったことにしたくない、小さな変化を感じ取れる人であり続けたい、と、上のエピソードたちを思い出すたびに小さく決意するのだった。


Jessie -ジェシー-



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