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日テレの報告書から、業界の変革を強く望む

「セクシー田中さん」というメディアミックス作品をめぐる問題の報告書が出たと知ったのは、まず夜のニュース番組においてだった。寝ようとしていたところだったけど目が冴えた。

「ドラマの制作関係者や視聴者を不安な気持ちにさせてしまった」

社長がそんなコメントと共に謝罪したと聞いて、私は報告書そのもの以前に深いため息をつきたくなる。

「嗚呼、原作者とその人が生み出した一次創作物のことは、ろくに見ていないのね」

そんな印象を抱いたからだった。


SNSはじめ発信ツールの充実によって、以前よりずっと簡単に、誰でも表現者になれる時代が来たと言われて時間が経とうとしている。

ドラマ視聴者は単なる「視聴者」には止まらない可能性の方が高いと思う。

テレビ画面の前では視聴者でも、スマホの文字入力画面に指を置いたら、マイクの前に立ったら、ペンを執ったら。その「視聴者だった人」は同時に表現者でもあるかもしれない。

そういう人たちが見聞きして納得できる仕事を、果たして日テレの、ひいてはメディア業界はやっているのかどうか。



……とかここまで書いてきたのですけれど、一つことわっておかなければならないことが。
私はあの報告書を読めていません。Twitterに、勇気を出して読んだ人たちの感想や意見を見るばかりです。
どうしても勇気が出ません。
感想や意見は一次情報に当たってからするべき、という原則は知っています。必要な原則だと思います。
メディアミックス経験者の著者たちも過去のトラウマを想起してしまって辛くなる内容のものを、自分の時間を使って見にいくことにどれくらい重要性があるかどうか。
さらには読んだあと、高確率で傷つくだろう精神をケアする時間も要することにどれくらい価値があるかどうか。
考えた結果、まだ読めていません。
私は心の回復に時間を要します。
だったら自ら傷つきに行くよりも、創作中の文章に時間とエネルギーをかけた方が有意義だろうと考えたのです。人生の時間は有限ですから。


報告書そのものや、今回の問題に直接的に関わることについては、もちろん一次情報に当たってからコメントした方が良いでしょう。
的外れな二次加害に加担してしまったり、その結果新たに誰かの命が失われたり、誰かの心を深く傷つけてしまったりしては、あまりにも取り返しがつかないからです。


けれども今回の事件をきっかけに明るいところに曝け出されようとしている、マスメディアの慣例や悪習については、創作に携わる者のひとりとして、感じたことを書き残しておく権利があるのではないかと思いました。
だから書いています。


どんな業界にも「慣例」はあることでしょう。
往々にしてその慣例は、法律に照らせば違法なこと、またはそのギリギリのことだったり、その慣例に苦しんで業界を去って行った人が存在していたりすると思います。

「生存者バイアス」というものが存在しますから、慣例の中で折れずに済んだ人がいる以上、その慣例は見直しの機会を失い続けて残存し続けてしまいます。

今回起きたことはこれまでも起き続けてきたことであり、背景にはこれまで傷ついてきた作家、メディアミックスの辛さをきっかけに筆を折ったかもしれない作家、なんとかメディアミックスを乗り切った作家たちの存在が多数あることでしょう。
今回の件が特別なのではなく、時期、拡散のされやすい情報インフラの存在、社会の関心等々、さまざまな要因が重なった結果、ひとつの業界の悪習を目に見えやすいところまで持ってくることに成功したのだと思います。

業界の抱える問題はおそらく根深く、問題意識を持つ人はこれまでにもいたものと推測します。

だからこそ思わずにはいられません。


なぜいつも変化のきっかけに、人が死ななければならないのか。


人の命が失われてから注目を浴びる問題という展開が、あまりにも多すぎます。
死ねば解決するわけではないけれど、命を捨てることが問題からの脱出方法であり続けてしまっています。

だって注目されなければ誰も助けてくれないから。

この国で自殺が多数発生し続ける要因のひとつでもあるのかもしれません。


問題意識を持っている人がいても、慣習に変化を促すだけの影響を与えられない。変化を拒む人・構造が強固に存在し続ける。

それこそが問題なのです。


慣習という強固に組まれた構造を揺るがすための一番力強い行動が、人の命を捧げることであり続けてはいけないと思います。



メディアミックスは憧れでした。お金が儲かるからではなくて、自分が考え抜いて作った作品を、より多くの人に、より色鮮やかに楽しんでもらえるチャンスだと捉えていたから。

けれども今回のこと、そして今回をきっかけにより大勢の作家さんが言及し始めたメディアの「慣習」や作者を軽んじる態度を見聞きして、憧れの気持ちはほとんど消え掛かっています。

そもそも日本で単行本化を目指していて大丈夫なんだろうか……というところから懸念しています。

もう軽んじられたくない。願いにも、あるいは当然の権利の主張でもあるような指針をやっと見つけたところなのに、ここにいてはそのスタンスが貫けないと感じました。

アメリカのエージェント制度を、必要不可欠なものと理解し始めました。

日本にも、著者の味方になり出版社やメディアとの間に入ってくれる、出版エージェント会社がいくつか存在するようです。
画期的であると思うと同時に、全ての作家をカバーできるくらい、もっともっと大きな団体になってくれればいいのにと思います。
作家にはエージェントという絶対的味方がついているのが当たり前になればいいのにと思います。

法律で保障されているはずの著作権が、きちんと尊重されるようになってほしいと思います。
作家が性別に関わらず尊重の態度を持って扱われるようになってほしいと思います。
人間が、性差別なく扱われるようになってほしいと思います。

結局突き詰めると人権の話、個人を尊重するという話につながってくるんですよねこういうの。


編集者は著者の伴奏者だけどよその会社の社員でもある、板挟みの立場です。
そして彼彼女の給与と職を握っているのは会社ですから、究極的には会社の利益を考えて動かなければなりません。
そういう点で、編集者が著者の味方であり続けることには限界が存在してしまいます。

その点著者が出版エージェントと契約すれば、エージェントの仕事は「著者の最善を取り計らう」ことになるから力強い伴奏者でいられると見受けます。


大型書店が閉店していく。人気の個人書店がある。文学フリマが賑わっている。

出版社に頼らずとも出版ができ、多くの人に作品を届けられる機会が増えているからこそ、じゃあ逆に「出版社から本を刊行する」ことにどんな価値が生めるだろう? という問いが私の中にずっとあります。

あるいは日本で本を書き続ける意味・意義は?


どこかで「その時代に生まれてきた者の責任がある」というような言葉に触れました。こないだなのに、どこでだったか分からなくなってしまったのだけれど…。

うっかり慣習蔓延る時代に生まれてきてしまったばっかりに、魂を込めて自分の作品を作るのみならず、慣習の打破まで考えなければならないなんて。

理不尽だ、と叫びたくもなるけれど、では無関心を貫いてその慣習が生き残ればいいか? とは私は思えません。

だからこそたくさん考えて、何度も投げ出したくなって、それでも結局何かを考えては意見を表明することに戻ってきてしまう。


私はエージェントをつけて、出版契約書を交わして仕事して、利用許諾をどこに出すか、出さないか、責任と自信を持って決められる作家になる。それをおかしいこと、こだわりという的外れな言葉で捨てられない流れを作る一員になりたい。

だから社会の方も変わってよ。
おかしいことに気づいてしまったのだったら、それを変えるのが現代に生きてしまっている私たちの責任でしょう。

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