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厄介さ、あるいは「厄介な方の性」

「前回って性別言ってないよね?聞きますか?」と言われたのが不意打ちすぎて、「え、でも背中側向いてるし、わかんないですよね?」と瞬間、なんとなく逃げようとしてしまった。けれど続けて「わかるなら、お願いします」。
「たしかに向こう向いちゃってるけどね、これね、たぶん…ついてない、と思うんですよね。女の子だと思いますよ」「あ、女の子」「うん、女の子」「ほー、女の子」

エコーのとき、いつも体をひねって顔もなにもよく見せてくれない我が子はどうやら「女の子」らしい。
といっても、「今のところ、エコーで見える限りの、外性器の状態として、女性性である」ということだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、産婦人科の帰り道、「厄介な方の性で産まれてくるのか」と思った。厄介、厄介。

「男性だって厄介だ」って議論は、すみませんここではしませんけど、いま生きている女性性を持つひとりとして、こりゃ厄介ですなぁと思ったのである。

女性性の持つ身体的な厄介さ、女性性が持たされている社会的な厄介さ、そしてその間にある厄介さを思うと、少し気が沈む。

帰宅し、夫に性別を伝える。
夫は緩んで垂れ下がる頬を隠しもせず「どっちでもいいけど、そうか、そうか女の子ね、へー、なるほど」とまだ見ぬ我が子の新情報に喜んでいた。子どものことならなんでも嬉しいのだ。なんでも。なんでも。

なんとなく静かな私に、夫が「男の子がよかったの?」と尋ねる。私は私の思ったことを伝える。そして夫は……なんて言ったっけ。

これは、夫が大したこと言ってないとかそういうことじゃなくて、私の問題だ。私の「男性性に女性性の厄介さについてコメントされたところで」と対話をしたがらない、私の問題。私が夫の言葉を聞く耳を持たなかったという、私の問題。

厄介厄介、と思いながら、いまはまだ抱きしめることができないので腹を撫でる。飽きもせずぽこんぽこんとする我が子のその暢気さに(いや子としては全く暢気ではないのかもしれないが)頬を緩めながら。

厄介だが、と思う。
厄介だが、悪くないぞ、と。

女性性やグラデーションの中にある性の厄介さを嘆くときに、シス男性を排除してしまいがちなのは私の短所でありその加害性も自覚した上で、それでも、エンパワメントする意味でも声を大にして言いたいのだ、「女性性で生きることは、悪くないぞ」と。

ただしかし、それとは別のこととして、身体的な、社会的な、そしてその間にもある厄介さを少しでも軽く、減らしてあげたいと思う。それは親としてだけでなく、先に生まれた者として。そして我が子だけでなくすべてのひとが(本当の意味でのすべてのひとが)抱える「厄介さ」が減ったらいい、と思う。

もう一度、夫に聞いた。「私が厄介だって言ったとき、あなたなんて言ったっけ?」
「いっぱいぎゅってして、大丈夫だよって言おうよ。大好きも大丈夫もたくさん、たくさん言おうね、と言ったよ」。
我が子の厄介さの一部は夫によって溶かされるかも、いやもしかしたら生まれることすらないかもしれない。
「でも愛の種類が違うし、順位をつけろと言われれば一番はJessieだからね、子どもの性別やその他属性に関わらず!!」と笑う夫に、私の抱える厄介さも少し消えていくのです。


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シスヘテロな男性性を落とす意図はもちろん、LGBTQ含めありとあらゆるひとをその性的属性ゆえに差別する意図はありません。そのように読めた場合、私の筆力がないことが理由です。あしからず。。。


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