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母の生のむなしさ

こんなこと書くと不謹慎だけどほんとのことだし私の感情だから書いちゃうけど、母が死んでいてよかったな、と感じることが妊娠してから増えた。
最も多いのは、病院や役所などで聞かれる「産んだあとの子育てについて」の場面。

「ご実家は〇〇なのね〜ってことはそれなりに近いし、ママ(※私のこと)のご両親が手伝いに来てくれたりするのかな???」
「いえ、私の母はすでに死んでますし、父は昔気質で子育ての戦力にならないと自覚してるのでそちらの助けはありません(ほんとのところ、父に妊娠の話はしてませんが)」
「あぁお母様は亡くなっている…そうなのね……」
「はい。実家はいま父の一人暮らしなので、里帰りもあり得ません」
「うん、それならそうよね……」

生きていたらこうはいかまい。
ちなみにこのあとは大体こう続く。
「パパのほうはどうなのかというと…」
「義両親ともに現役世代で仕事が忙しいのでそちらも無理ですね」

子育てというと当然ように「夫婦+それぞれの両親の計6名」の大人の手があるということが前提で、世の中デザインされている。ひどい話だ。

ちなみに私のことを『ママ』と呼ぶのも勘弁してほしい。
「お客様」的なかんじ?呼び間違いを防止するため?
でも私だけと対面して話しているんだから「あなた」とか言いようがあるでしょうにね。


最後に実家に行った際、私が生まれたときに母が産院からもらった育児日記を見つけた。
持って帰ってきて中を見て絶句した。私のことが何も書いてなかったから。
「久しぶりにお風呂に入れた。すっきりした」「やっとまとめて寝ることができてよかった」
しかもそれも最初の一週間だけ、とびとびで書かれた四日分の内容が、これ。
どうしたかって、処分したよ。
そういえば、母子手帳は見つけられなかった。

母は私を愛していなかった、少なくとも私が望むようには愛していなかったけれど、思うに、母も、愛されていなかったし、そもそもなにを望んでいたのかもわからない。

愛されていたのか、愛を望んでいたのか、何を得ていたのか、何を得たかったのか。
わかっていることは、ただ生活をしていて、ただ、生きていたということだけだ。

もしいま母が生きていたら、と思う。
親戚中をまわって妊娠の報告しろだとか、お宮参りは何十人と呼んでやるだとか、そんなことを言っただろう。
里帰りしろと言い、そのための準備はすべてこちらでしろと言っただろう。
ありありとその様子が思い浮かぶ。

腹の中の子のことばかりを考える合間に、母の生のむなしさを勝手に感じている。

生きていることこそが親孝行なんていうけれど
死んでいることこそが子孝行なんてね。

あーあ!




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