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それでも捨て切れないもの〜村上春樹『猫を棄てる』を読んで〜


副題にある通り、著者によって自身の父親との思い出が淡々と、
むしろ意識してなのか抑えめの筆致で終始描き出される。

著者と父・村上千秋は最終的には”20年以上顔を合わせず、
ほとんど口もきかず連絡もとらなくなった”といい、
父親との関係には長年しこりのようなものを抱えていたようだが、

彼らの間ではるか昔に交わされた「トラウマの継承」こそが
戦争体験者から未経験者への歴史の伝承、命のバトンであり、
前もっての世代交代の準備であり、
”自分の人生に相手を巻き込む”という家族同士のみでこそ成立し得る営みの象徴である気がした。

日中戦争時に徴兵されていた父親が立ち会った捕虜が処刑される様子を、
不意に小学校低学年の息子に話して聞かせるシーン。

残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。(中略)言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものをー現代の用語を借りればトラウマをー息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。

人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?



これに似た一節をどこかで見かけた気がして、
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を引っ張り出してみる。


人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。


そして私は、通常”最も近い存在”と言われる家族にこそ、
どうしても離れられない、断ち切れないものを共通していながら
見せられない一面があったり、分かり合えない何かを抱えている人に
なぜか強烈に惹かれる。
(あれだけテレビに引っ張りだこのマツコさんが、世間に対してはどんなに醜態を晒せても母親にだけは自分の口からこの形姿をしていることを話せていない、という話に感じ入ってしまう)

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棄てにいったはずの猫が自分たちよりも先に帰宅していたように、
著者が父親との思い出を捨てきれていなくて良かった。
著者の中に父親との思い出が住み着いてくれていて良かった。
(そもそも「家に住み着く」という猫を捨てることは至難の業である。)

消え去ってしまえるはずもないけれど、それでも著者の父親が戦時中に経験した肌感覚や息遣いを捨て去らず引き継いでおいてくれて良かった。



余談だが、私には最後に出てくる松のてっぺんまで駆け上って行った子猫のエピソードが『女のいない男たち』に出てくる医師の行く末と少し重なって見えた。




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