見出し画像

私が小説で自衛隊を批判する理由 その2

 2つ目の理由。それは、私は自衛隊を熱狂的に賛美しないからである。

 熱狂的に賛美するとは、自分が自衛隊の熱狂的なファンになり、彼らのやることなすこと全てを肯定する。あるいは、その反対に、自衛隊を批判する人間たちを激しく非難するような態度を言う。私はそういう人間になるつもりはない。物事を考えるには冷静さが必要だと思う。熱狂的なファンに、それは出来まい。

 かつて、第二次世界大戦当時の日本は、熱狂であふれかえっていた。当時の人々は旧日本軍を世界一の軍隊だと思い、熱狂的に支持していたではないか。

 そして、その結果が、数多くの犠牲と原爆、それに焦土と化した国土であった。自分たちが熱狂していては、戦争には勝てない。犠牲者を減らせない。それが、私たちが得た教訓ではなかったのか?


 現代には第二次大戦当時の兵器よりもはるかに危険な大量破壊兵器があり、もしそれが使われれば、昔の犠牲をはるかに上回る死者が出ることがわかっている。
 このような時代にあって、私は生き延びるために熱狂を捨てたい。社会が熱狂で湧きかえっている時に、その正反対の態度を取ることは困難であろうが。

 もし国民が自衛隊を熱狂的に賛美して、その問題点を無視すれば、結果として、自衛官と国民の多くが死ぬであろう。

 それを回避し、大量破壊兵器の時代を生き延びるために、私は熱狂を捨てたい。それが、私が自衛隊を支持するけども熱狂的に賛美しない理由、そして『必要とあらば』彼らの問題点を批判する理由である。


 3つ目の理由は、自衛隊を検証するためである。

 例えば、自衛隊は神道に偏っているのではないか? 私はそう思う時がある。海上自衛隊の大きな艦艇には、神道の神棚がある。それは、自衛官たちが彼ら自身のお金で設置したもので、そのような行為は自衛隊に関する法律などには違反していないそうだ。あるいは、防衛大学校の若者たちが、年に一度、五百人近くの集団を組み、横須賀から靖国神社そばまで70キロほども歩いたあと、千鳥ヶ淵戦没者墓苑と同神社を参拝している。それは個人の行動だから問題ないそうなのだが、自衛官が靖国神社を過度に賛美することにつながらないだろうか? 他にも、自衛隊と神道の接近の例はあるのだが、長くなるので、ここではそれを列挙することは控えよう。

 自衛隊と宗教の話は、これから公開する「愛国者学園物語」の第151話から第153話で取り上げる。


 私たち国民には、政府を批判する権利がある。それは民主主義社会に生きる私たちの当然の権利である。

 それに、自衛隊などの政府機関を維持する原資は私たちの税金である。今の社会では、子供でも物を買えば消費税を払っているのだから、子供でも納税者である。年齢や社会的な立場を問わず、納税者は政府機関を支えているのだから、自分たちの税金がどう使われているのか、政府の仕組みやその働きを検証する権利がある。だから、国民として納税者の一人として、自衛隊のあり方を検証したいと思うのだ。

 私は保守派で軍隊必要論者であるから、自衛隊の存在を認め、彼らの仕事に感謝している。そのような私が目指すこと。それは自衛隊を侮辱することではなく、冷静に、その問題点を考えることだ。

 そして、それを書くことが、祖国日本と自分自身、友人たちや家族の安全につながると信じたい。もちろん、そういう思考は、私が懸念している日本人至上主義への反論にもなるだろう。

 私は祖国が熱狂的、排他的、攻撃的な日本人至上主義で満たされるのを見たくはない。自衛隊イコール祖国の軍隊が、過度の保守思想、つまり日本人至上主義の巣になって欲しくはない。あるいは、彼らが巨大化して、社会の中で異様な権力を持つ組織になって欲しくはない。

 いずれ、我が小説に登場するが、かつて、ある男が自衛隊の施設に入り込んで、隊員たちにクーデターを呼びかけたことがあった。そう、あの男だ。もしそれが実現していたら、日本は民主主義と自由のある社会とは正反対の、暗く暴力的な社会になっていただろう。自衛隊員は特定の政治主義や宗教に傾かない。そして、自分の仕事に誇りを持つ専門家であり、かつ、紳士・淑女であって欲しい。私はそう願う。




続く

写真は2017年11月に、神奈川県横須賀市にある海上自衛隊第二術科学校で撮影したもの。基地イベントがあったので、出かけてみたのだ。



大川光夫です。スキを押してくださった方々、フォロワーになってくれたみなさん、感謝します。もちろん、読んでくださる皆さんにも。