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2024/05/17 懐古が繭を食い破る

 少し前にオッペンハイマーを観てきた。思っていたよりも苦悩の部分が前面に出てきている印象。人の名前がたくさん出てきて「誰が誰だったっけ?」となってしまい、しっかり理解できたわけではなかったけど。あとは、個人的に結構生々しい性的な描写があってそこがしんどかったかな。
 本当はしっかりした文章にしたかったけど、この有様なので感想らしい感想は書けない。ただ、劇中に出てくるセリフ「罪を犯しておいてその結果に同情しろと?」が、全てを語っているように感じた。
 ナチスを止めるため、半ば強引とも感じられる勢いで原子爆弾を開発したものの、その恐ろしさを自認して止めに入る頃には遅かった……、みたいな。どれだけ後悔しても、結果として固定されてしまえばもう後戻りはできないんだなと思った。やっぱり、名誉は時が経てば廃れるけれど、罪だけはどこまでも人にピッタリとついてくるものなのかな。

ユリイカの話

 サカナクションのライブが楽しみすぎて、最近はサカナクションばかり聴いている。それにつれて私の音楽、心がどんどん広げられている。
 その中でも今特に「これは!」と感じて、感情がぐちゃぐちゃにされているのがユリイカという曲。この2日ぐらいはこればかり聴いてる。これを書いている今も聴いている。
 後で触れる記事がすごく丁寧に紹介しているのだけど、一応私の言葉で書いてみる。

 以下は私の解釈。一言でいえば、この曲の主題は望郷だと感じた。もう少し詳しく言うなら、故郷にいた頃の自分と、今の自分を対比してしまい、空虚さに気づいてしまった、そんな感じだと思う。
 何でもかんでもそれに紐づけるのは良く無いと思うけど、やはりサカナクションが北海道から出てきたバンドということと、そこに一定のアイデンティティがある(ような気がする)ことを考えると、望郷の想いを感じてしまう。
 この曲に出てくる「君」は東京に住んでいるのではなく、おそらくは故郷に住んでいる誰かなのだろう。あるいは、昔の自分なのかもしれない。故郷とは対照的な情景の街で、生き急ぐように毎日を過ごしている中で、そのような差にふと気づく(=Eureka: ユリイカ)ことがあるんだろう。あるいはそんな自分を客観的に見て、色々と思いを巡らせてしまったのかもしれない。

 この方の記事にもある通り、前半の淡々としたメロディラインと後半の盛り上がりは、「僕」の感情の揺れ動きを表していると思う。そして「僕」と同じように私たちも心を大きく揺さぶられるという仕掛け。
 全編通して、都会で生き急ぐことの空虚さを歌っているかのよう。故郷で過ごした過去のことを思い出し、東京の真ん中で泣き崩れるような情景が浮かぶ。

 なぜこの曲が、特に私の心を「広げた」のかというと、まさしくその望郷の想いを植え付けたから。
 私は小学校の中途半端な時期に転校している。そして転校前に住んでいた場所にいた友達は、私が転校してから次々と別の場所に転校して行って、今はそこに当時のクラスメイトはほとんどいない。要するに「地元の友達」とか「幼馴染」という人が、偶然にも全く生まれなかった。
 そんな過去があるからか、私は地元や故郷というものに対する愛着がほとんどなかった。そういうものを謳う作品に出会い、感傷に浸ったフリをするようなことはあったけど、真に共感したり理解できたことは終ぞなかった。友達が「私たちの地元がダムに沈んだら悲しいよね」と言った時も「別にちゃんと補償がされて、全員が極端な不幸に見舞われていないなら良いのでは?」という感想しか出なかった。

 ただ、ユリイカを聴いて強く心を動かされて、何か望郷や地元愛の輪郭を掴めたような気がする。
 私にはそういう経験が無いので、しっかりと理解できる時が来るとすればまだ先のことだと思う。ただ、唐突に虚しさに襲われる経験はあり、それを望郷という文脈で裏打ちするというようなやり方で想像することはできた。そしてその時に、曲そのものの力を借りて、初めて「育った街がダムに沈む」ことの悲しさを、少し理解できた気がする。

 なんとなく、思い出に触れられなくなるような。自分自身のアイデンティティと隔絶されてしまうような。そういうことなんじゃ無いだろうか、と考えている。
 だとすれば、思い出に触れたくなったり、自分のアイデンティティの根源とそこから遠ざかった自分を意識してしまい、虚しさを感じた時に望郷の想いは現れてくるのかな。
 やっぱり、まだちゃんと整理できてなくて、きちんと言葉にはできない。でも、それでもなんとなく輪郭を掴んだ気がしてるんよ……。もしかしたら就職を機にここを離れ、改めてユリイカを聴いた時には「これが…!」となってるかもしれない。その時、ユリイカという曲はより深く私の中に根を張るんだろうな。

 長々書いたけど、とにかくユリイカ、とても良い曲。


シーラカンスと僕の話

 合わせて聴いているのがシーラカンスと僕という曲。ユリイカがすっごく雑に括れば若い頃を思い出す曲なら、このシーラカンスと僕も同じだと思う。というか私は中学生ぐらいの頃を思い出した。

 地表を深海と捉えた世界観の中で曲が展開し、最後に「曖昧な若さ」というフレーズが出てくる。私はこのフレーズから、深海にいる青い目とウロコを持つ「僕」ことシーラカンスは、若さの象徴なのではという気がした。
 自分のことを棚に上げて書けば、若い頃ってなんとなく遠くへ行こう遠くへ行こうという意識があると思う。その辺りは「どこかへ行こうとする」「どこかへ走り出しそう」というフレーズが表現している。
 そしてその向かう先は具体的には決まってない事が多い。ただ闇雲というわけでもなくて、なんとなく上や前を向いているイメージ。また、大きな夢を持っていても許されるのはこの時期な気がする。だからこそ、ビルの上「シャローを目指して」いるんだと思う。静かにギラギラしてるのかな。

 そしてそんなシーラカンスとは、古代から姿を変えていないとされる生き物。「僕」はそういう生き物に喩えられているわけで。昔から変わっていない部分が多分あるんだろう。あるいは全く変わっていないのかもしれない。
 最後にはそんなシーラカンスこと「僕」は「僕が僕のままあり続けられますように」と祈る。それはそんな若さを失いたくないという思いの表れだ。複雑なメロディーは、私には若い頃の雑然とした葛藤を表しているように聞こえた。
 あくまで全部私の妄想、もとい後から行った意味の付与なんだけど。この曲ライブで聴いてみたいな。すごく感動する自信がある。


2days インターンに参加した話

 通過率1%という触れ込みのインターンになぜか合格して、2日間参加してきた。主催企業は人材系の企業で、内容としてはマーケティング戦略の立案という話だった。
 ファーストキャリアの選択肢のうち、マーケティングは第一志望群なので、選考通過率抜きにしてもかなり嬉しかった。もちろん大したことはさせてもらえないだろうけど、少しでも触った事があるか無いかでイメージの現実味は大きく変わるから。

 そんなかなり楽しみにしていたインターンなんだけど、思い描いていたものとかなり違っていた。
 個人的にインターンやジョブは、すごく賢い人たちと出会って、主に人柄の部分で参考にできる部分を探したり、自分自身の特性や適性を判断したり、足りない知識をインプットしたり、賢い人たちの頭をどう使うかを学ぶ機会にしていきたいと思っている (かなり欲張り?)。
 そういうわけで、対面でグループワークを行うのがベストということになる。ただ今回はまずリモートだった。それはまぁこれから増えていく働き方だし良いんだけど、2日間全て個人ワークなのは開いた口が塞がらなかった。

 確かに1人で考えることは大事だけど、ずっとそれだと「盗作」が行えない分、得られるものが大きく減ってしまう。どうにか意味を見出すなら自分自身と向き合う時間になってるわけだけど、それは自己分析の時なり1人の夜なりで十分だ。
 結局、じっと1人で考え続けて最後に社員の方にプレゼン。フィードバックを得て終えてしまった。収穫がなかったかといえば、あるにはあるんだけど、やっぱり1人でできることには限界があるから、2日も要らなかったなという感想になった。
 1人でやる前提のワークなので難易度や要求されるクオリティもそこまで高くはなく、負荷としては軽めだった( 打つ手が無くなって、1時間ぐらい他のことをしていることもあったほど、間延びしたものだった)。

 総じて密度が低く、これなら他の選考に時間使っておきたかったなという印象。
 ただ、得られたものは確かにあった。内省の時間がほとんどだったので、自分は結構グループで何かをすることが好きではあると気づけた。特に初めて会った人と何かをやるというのが好き。1人で黙々とやるのは、アイデアを出すとかそういうクリエイティビティが求められる部分でなくて、鍛錬とかとにかく身体や頭に染み込ませる部分が良い。

 とりあえず疲れはしたので、冷蔵庫にあったアイスを食べた。美味しい。
 大手のインターンはそろそろ募集が始まる。とりあえずそこに向けて頑張ろうかな。よく考えたら、全員顔を知ってるレベル感の組織だと私には小さすぎてやりづらい。すぐに全く知らない人が出てくるぐらい、大きな企業で右往左往したいな。

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