吉田秀雄はいかなる鬼か②

 キリスト教会はどの宗派も得てして聖職者や教職者の権力が極めて強い。その根拠は全てにおいて「神」に置かれており、さしずめ現代の神権政治といったところである。中でも顕著なのはローマカトリック教会の教皇制度であるが、そもそも新約聖書のどこにも教皇の存在の根拠となるべき記述はない。カトリック教会がその根拠として挙げているものがマタイによる福音書第16章17節~19節の使徒ペテロに対するイエスの発言である。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においてもつながれています。」

 これを読んだ人は誰でも、イエスがペテロ個人に対して言った言葉だと受け取るはずである。これ以後、聖書のどこにも「ペテロのかぎ」に関する記載はない。まして、このかぎを誰かに相続させることができるのか否かについても言及されていない。

 ところが、カトリック教会はいつの間にかローマ教皇がそのかぎを受け継いでいると言い始め、そのかぎの相続権を更に飛躍させて、教皇を地上のおけるキリストの代理権者であると言い始めた。伝説ではペテロはローマに赴いてキリスト教伝道を行ったとされており、故に彼を初代ローマ教皇に祭り上げた。ローマ教皇は元々ローマ、アレキサンドリア、エルサレム、アンティオキア、コンスタンティノープルにそれぞれ存在した司教たちの1人に過ぎなかったものである。それをイエスの言葉一つを拡大・類推解釈を積み重ね、およそ聖書の内容の本筋から隔離した存在ができあがってしまった。

 キリスト教の儀式に聖餐式というものがある。これはイエスがその身と血潮によって人類の贖罪を成し遂げたことを記念し、記憶に保存するためにイエスがユダヤの祭祀である過越祭における晩餐で教え、定めたことに由来し、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のモチーフにもなっているが、これはあくまでも象徴物を用いて単純かつ正確に記憶を保存し、伝える目的であるものなのだが、今や何某かのお祓いのような儀式に貶められ、その目的を果たせるものにはなっていない。事実、キリスト教を奉じるヨーロッパ人たちは聖餐式で贖罪の儀式を受けたその後で異国人を差別し、奴隷化し、殺戮と略奪の限りを尽くしている。

 このように、そもそもの意味が極めて単純明快で、曲解のしようもないと思われる言葉や記述でさえ、このようにあらぬ方向に捻じ曲がる事例が現に歴史上に存在しているのであるから、電通の鬼十則が吉田秀雄氏の死後にあらぬ方向に捻じ曲げられ、挙句に死者を出すまでになったことは、決して予測できないことではなかったはずである。

 マスコミは鬼十則の5番目ばかりを強調して批判記事を書いているのであるが、批判をするのであれば鬼十則全てを使って批判を展開した方がよい。なぜそうしないであろうか。

その電通鬼十則は

1.仕事は自ら創り出すべきで、与えられるべきではない。

2.仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。

3.大きな仕事と取り組め。小さな仕事は己を小さくする。

4.難しい仕事を狙え。そしてそれを成し遂げるところに進歩がある。

5.取り組んだら放すな。殺されても放すな。目的完遂までは・・・。

6.周囲を引きずり回せ。引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地の開きができる。

7.計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

8.自信を持て。自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。

9.頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。

10.摩擦を怖れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。

以上の十項目からなるが、本来なら1番目から10番目まで通して読み、その全体の流れとそこに包括されている意図を読み取るのが正しい読み方であり、一部の表現が過激だからいけないのだという論調は、まさに「木を見て森を見ず」である。

 この吉田社長が唱えた言葉はまず、仕事とはどういうものかを語り、そこからどんな仕事と取り組むべきかを語ってから、その取り組み方について姿勢と行動、行動を継続するために求められる心構え、そして具体的な行動指針、そしてその前途にあるであろう問題との向き合い方について10の項目をもって語っていると取るべきである。そこには「死ぬまで働け」という意図はない。ただし、当時の電通、当時の社会状況を見れば、「死ぬ気で働かざるをえない」という現状が見える。その現状が見えれば、今なら過激と取られるような表現が含まれていても不思議はないのである。

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