「清和天皇」の読書感想文
神谷正昌著「清和天皇」を読みました。
清和天皇は9歳で即位、27歳で退位、29歳で出家、30歳で死去した天皇です。
即位する前に3人の兄を飛び越えて皇太子に推挙されたので周囲の反発もかなりあったようです。
即位後も律令制度の改変に取り組みながら災害や都の玄関口にあたる応天門の放火事件、「応天門の変」と云われる事件で苦労した事などがこの本で説明されていました。
「応天門の変」は藤原氏がライバルとなる有力者を追い落とすために利用したと学校の授業やマンガ「日本の歴史」で教えられました。現在の研究ではそれらとは違う説が有力であることはこの本で知りました。
応天門の変は大納言の伴善男の訴えにより左大臣の源信が疑われました。しかし、太政大臣の藤原頼房の訴えもあり、源信は処罰されずに済みます。しかし、それから半年後に伴善男の息子が犯人であると名乗り出る人物が現れます。その結果伴善男と関係者は流罪になります。その後、源信は放火の疑いを掛けられた事により、家に引き籠もるようになり、御所に出仕しないようになりました。伴善男と親しく清和天皇の即位前には皇太子の廃嫡にも賛成していたと云われる弟の藤原良相と藤原頼房の関係も悪化して、源信と藤原善相は応天門の変の後、しばらくして死去します。結果的に藤原氏の勢力が増しました。しかし、必ずしも権謀術策を弄した結果でもないようです。
当時は地震や津波のような自然災害の原因は天皇に徳がないからと統治能力を疑われましまいます。清和天皇が出家して洛中から遠くない水尾に遷り住んだ気持ちも良くわかりました。
水尾の里は最寄り駅はJR嵯峨線の保津峡駅。嵐山駅からひと駅ですが山に囲まれた無人駅です。
そこから歩いて1時間ぐらいの場所に民家と畑がある静かな場所です。京都の愛宕山から下山後に保津峡駅に向かう途中に必ず通る場所です。
約500年前に明智光秀が本能寺の変の1年前に通った可能性があるので関連があるのかを確認したくて読んで見ました。しかし、清和天皇とその時代に起こった事件が興味深く、水尾の里の散策を兼ねて水尾天皇陵にも行きたくなりました。
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