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現実は観察と認知によって作られる

「そんなことより」と言ってたら、らちが明かない。

たとえば、有名人を集めて桜をみるためのお金と、タレントの違法ドラッグ、そこに群がる方向の異なる批判。テレビもウェブ上も、お互いの関心と時間を奪い合うように、必死にニュースを取り上げている。

そんなことより、というと怒られるかもしれない。

そんなことより、今ぼくはスーパーの野菜の値段が気になるのだ。価格変動すごいし、毎年違う。生産量と流通量、購買量等々バランスでもって決められるんだろうか?安いのか高いのか、この先どうなるのか。あとキャッシュレスならちょい割引効くんよね。知らんけど。

話題を追っていると、なにが現実か分からなくなる。どちらも、どれも現実と言えば現実だ。

テレビニュースの映し出す現実、ニュースキュレーションアプリ上の現実、SNSの現実、学校や会社、日常生活上で対面する現実。現実と非現実の明確な線引きは難しく、人によって異なる世界になっていると感じる。

その現実世界は見ているものか、見せられているものか。どこまでがノンフィクションでどこからがフィクションか。自分は、どこにどれだけ接触しているか。どの地図をみても分からない。

アマゾンプライムのオリジナルドラマ“高い城の男”を観ている。先日、このドラマのラストシーズンが公開された。待ち遠しくしていたので、週末からゆっくりと観始めている。

太平洋戦争で日本とドイツが勝った世界の話。アメリカは二分され、枢軸国の人々とレジスタンス達が世界を探し求める。そんなSFを、現代のシリアスドラマに仕立てている。(少々アメリカ寄りに)

史実に残された現実と、ありえたかもしれない現実。どちらも創作物への観察を通して、おおよそ“現実らしいもの”として捉えられる。ドラマって楽しい。

現実は、人がどう見るかによるんだろうな。

観察する対象は観察する側によって変わる、という仮説がある。箱の中の猫は、箱の外側の人間が「生きている」と思えば生きているし、「死んでいる」と思えば死んでいる。量子力学で有名なシュレディンガーの猫だ。

この世界も、おそらくそうなんだと思う。

いま、仕事でカウンセリングするような人のインタビューをしている。世界と向き合うのに苦労している人の声を聞く、そんな人の話。柱としての職務と個人の甲斐。そこから、世界と個人のあり方を観察・関与する重みを感じる。

人は困難な状況のなかで、時に現実に絶望する。それでも生きていく以上、その現実に向き合って適応的な生き方を模索する。過去に自分の選択した“復職”とはそんな選択だった。かたや、難しい現実を捨てて、生きやすい現実を選択する人もいる。社会的に障害手帳を取得して、バリアの中で働く道もある。

ある現実のドラッグ有名人は更生を促され、ある現実の政治資金はそれはそれとして説明責任を求められる。ある現実の野菜の価格は様々な要因や思惑によって決められ、そんなことも知らない私たちはそれを買う。自分の現実世界で、安い、高い、と言いながら。

現実は作られる。何を見て(観察)、どう捉えるか(認知)によって、自ら作り出している。自分の現実の狭さを思いながら、また違う現実を覗いて、その地図を拡げていきたいのだ。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。