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ボルタンスキーは、個人主義の希薄をどのように照らすか

連休初日。珍しく家に1人だったので、国立国際美術館でボルタンスキーの個展を観てきた。過去みた数品の作品でもその雰囲気を感じられたが、まとめて観ることでより強く作家性を感じることができた。

クリスチャンボルタンスキー。故人の写真と照らすライト、遺骨入れのような箱、何でもない衣服、スクリーン、映像、インスタレーション等による表現を用いて、存在や不在を浮き彫りにするアーティスト。

展示室には心臓の鼓動が響いている。
(撮影可能なエリアのみ写真を載せます。)

垂らされ、重なったスクリーンプリントの空間。歩みを進めると、重なりが離れ、仰ぎみれば、そこに一人ひとりの薄い写像と対面できる。フォーカスの外れた表情は特別なものでなく、普通の人たち。かえってその普通さが、その後の遺恨を伝えてくるかのように感じられた。それはきっと鑑賞者の勝手な解釈だけど。

ライトアップされた黒い山がある。よく見ると、黒服が積み重なり、山型の、ダークマターなのか、何か邪悪な塊を成している。服そのもののカタチも気配も、過去に誰かが着ていたという事実も、そこから失われている。

誕生日の字形に並べられた風鈴が、砂漠、雪山に鳴り続ける。作品と対面するこの一瞬に、生命の走馬灯の如くけたたましく高音を響かせる。風鈴の集合的無意識をみているような。いま現在、放置されたこれらは朽ち果てているらしい。人と運命はたぶん不可分なものだ。

来世と照らされたネオンの手前には、黒い建物を模した柱が並ぶ。美術館の周りに建ち並ぶビルのようだし、墓場のようでもある。あえて建物に周り込めば、当然来世は隠れる。私たちがどこにいようと、自らの立ち位置によって、此岸と彼岸の境界を見ることはできない。

撮影不可エリアで写真はないが、クジラを呼ぶビデオインスタレーションに心惹かれた。

大型プロジェクションされた左壁面にクジラの遺骨、中央に鉄のラッパ、右に海という構図。撮影先のパタゴニアでは、クジラ=起源という意味があるらしく、それに向かって呼びかけていた。死を背後に。

一瞬と永遠、レジデンスを通じて作られたその場所にしかない命の痕跡。現世の鑑賞者に問いかけるような作品群。作品そのものへの解釈というより、まるで、声を殺して生きたり、コントロールされた世論のなかで、稀薄さを増す個人に警鐘を鳴らしているかのようにも感じた。まとめて体験すると、この作家性と存分に向き合える。

東京、長崎にも巡回するらしい。もし興味があれば、じっくり向き合ってみるのもいいかもしれません。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。