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偽りの「本当」は捨てたっていいよ

日本では、モノゴトを強調するとき「本当に」「マジで」って言う。

言うでしょう?自分もよく使う。しかし、強調しないモノゴトは本当でないのか。あるきっかけで、そんな厨二臭いことを考えている。

どうも、強調表現で正しさを伝えるのは日本だけらしい。欧米は多さ(数)、南米は大きさ(ボリューム)なんだって。誰かのツイートの受け売りだけど。(もし、違ってたら教えて先生。)

本当に
マジで
実に
まさに
まさしく
全くもって
誠に
実際に

嘘も方弁、なんて言う。おもしろいね。おもしろいんだけどさ。

でもそんな「本当」心のなかで捨ててもいいんじゃないかな?と最近思う。嘘や建前を基準にした奥ゆかしさ、求めてますか?って。謙遜や気遣い、文脈の絡み合った妙もあるけれど、回りくどいかも。そんなこんなを、今の10代の記事を眺めていて思った。

僕らは日本社会に適応するため、本音と建前を分離した。もちろん馬鹿正直に、明日から率直に、ビジネストークを変える必要はない。友達、大きな組織、小さくても土着した会社、どこだとしても育ててきた関係はかけがえない。

この建前文化は、個人が思う以上に根深い。個人にはどうにもならん。そんなことより、無条件で課税を積ませるアホみたいな、したたかさが要るのかな。世界は日本だけでない。

話が曲解したかもしれない。とにかくも、あなたの自分の意志を、あえて「本当に」と言わなくとも、いいんじゃないかと思った。ひとつの「本当」に囚われずとも、一人ひとりが既に本当だから。本当を信じない前提の国なら捨てていい。どれだけ自分の意思が弱いと思っていても、それこそが本当ならそれでいい。気持ちをしたたかに示せたらいい。

なんとなく、そんなことを思いました。

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