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僕が定時に帰るワケ

教員を続けること十数年。学校教育の仕組みに疑問を持ってしまった。同じ年齢の子供が、同じペースで、同じ内容を習うことに、一体どれだけの価値があるのか。

知識を身に付けることに価値があったのは何年前までだろう。時代は変わった。もはや今、知識を身に付けるだけなら学校じゃなくてもできる。インターネットの爆発的な普及と進歩がそれを可能にした。

では、わざわざ学校に通う意味は何なのか。それはきっと「生身のコミュニケーションを学ぶため」だと思う。子供同士、子供と大人のコミュニケーション。つまり学校はリアルなコミュニティだ。そのコミュニティとしての役割を、今の学校は十分に果たせているのか。

答えは「否」だ。子供たちの自由な時間はほとんどなく、行事やカリキュラムに追われ、関わる大人も疲れ切っている。学校の役割は、保護者が働いている間の預かり業務、託児だ。託児のおまけに今なら勉強がついてきます!そんな感じだ。

変わりたいのに変われない。ほどけない結び目ばかりの学校。複雑に絡んだ問題を丁寧にほどいていくには、あまりにも時間と人が足りなさすぎる。まずは仕事の量を減らすことが最優先だ。「できればやったほうがいいこと」で溢れかえった学校から「本当にやらなければならない価値のあること」に業務を絞らなければいけない。さもないと、これからコロナの下火とともにゾンビのように復活した行事や業務に追われ、学校教育の質は落ちるところまで落ちる。残念だけどこのままいくと多分この未来予想は当たる。

現場で働く僕が感じる一番の違和感は、そんな激務の中にいる教員のほとんどが、仕事量に対して愚痴をこぼしながらも、未だに仕事を減らそうとしないこと。いやむしろ増やそうとしていること。そしてその事に無自覚であること。なんなら「もっと仕事をしたい」とも思っていること。嗚呼なんと恐ろしいこと。

体力や精神力が無限に湧き出てくるならそれでもいいだろう。しかし人材も時間も有限。限られた資源の中で、やりくりするしかない。それなのに「子供のため」なら何でもやるのが当然、ベストを尽くすのが教員の役割!という空気を感じるのは、僕の考え過ぎだろうか。

とは言え、この仕事はけっこう好きだ。好きだからこそ、持続可能な仕事にしたい。希望を持って「教員になりたい」と思う人材が、これからも増えてほしい。そのために、無理して仕事をするんじゃなくて、できる仕事しかしない。定時内に終わる仕事しかしない。残業してみんなで無理して仕事をやっちゃったら「なんだ、学校って今のままでも大丈夫そうじゃん」って思われるから。教員の辛さが伝わらないから。そして何より、自分が健康でいられなくなるから。仕事を続けられなくなるから。

決してサボりたいとか、楽したいとか、そういう意味で働き方改革や定時退勤をしたいと思っているわけではない。この仕事をこの先も続けていくための、ささやかな抵抗であり、提案でもある。

働き方や価値観は人それぞれだし、仕事に長時間エネルギーを注ぐ生き方だって否定できない。その人がそれで幸せならいいわけだし。でも、それが教員の働き方のスタンダードになったら嫌だなと思う。限界突破の全力投球が初期設定の仕事、誰もやりたいと思わないよ。将来教員になるのは、それを望んで職に就く「物好きな人」か、あるいは知らずに入った「ピュアな人」だけ。こんな職場ヤダ。多様性ゼロじゃん。

だから、僕は定時に帰る。これから教員のなり手がいなくなったらますますヤバいよね。でもそんなヤバい状況を作るか否かも、実は今働いている僕たち次第なんだよね、という感覚を持っていたい。そしてできればその感覚を誰かと共有したい。

正直なところ、もう個人でできることは十分やったと思っている。これ以上はもう工夫のしようがないほどやった。では次にできることは何か。
学年単位でできること。
学校単位でできること。
市町村単位でできること。
国単位でできること。
「できること」のレベルに合わせて、声を上げていくしかない。

とりあえず、職場に友達がほしい。仲間が3人いたら、環境を変えられるって言うし。そんであわよくば定時に帰ってその友達とビール飲みながら肉を焼いて遊びたい。

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