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クロスレビュー「ダンスダンスレボリューションズ」(京都芸術センター)1/2

踊る言葉、場が呼び起こすダンス
文:神田恵理

スワンはディディが好き、ディディもスワンのことがきっと好き。それでもふたりは不意にワープしたり、ループしたり、ない過去や不確定なこれからを考えたり……空間も時間も超越するほどすれ違いながらも、言葉とダンスで不器用なコミュニケーションを続ける——。『ダンスダンスレボリューションズ』がどのような公演であったのかをできるだけ正確に描写するために、公演前に二度行われたオープンリハーサルの様子をふまえながら公演の詳細に迫ってみたい。

©︎ 守屋友樹 / 京都芸術センター


中間的な言葉

2023年9月2日、1回目のオープンリハーサルが行われる[1]。戯曲の執筆に加えて出演者としてもクレジットされている松原俊太郎は、この日はまだ舞台には立っていなかった。客席中央あたりに机と椅子が置かれ、そこに座ってリハーサルの様子を見守る。舞台上では、演出を手掛けるコレクティブ「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」に加え、ダンサーで振付家でもある児玉北斗と斉藤綾子の4名が各自の練習を行っていた。

「戯曲執筆」と演出などの「舞台づくり」が同時に進行する今作は、稽古を重ねるごとに戯曲にも変化が加えられるようで、リハーサル中に車座になっての最新台本での読み合わせが行われた。それはあくまでも読み合わせであるため、変更点がどういった内容であるかの確認のために淡々と——棒読みというわけではないが——大きな抑揚や強弱はあまりない状態で文字が読み上げられる。観客には登場人物の発言としてはっきりと聞こえるわけではないが、戯曲の言葉であるため出演者本人の会話でもない。いわば中間的な存在とも言える言葉だ。読み合わせが終わると今度は動きながらその場面を実演する。動きが加わると読み合わせ段階に比べ、さらに鮮やかに景色が描かれるかのようだ。出演者が次第に物語の世界に身を置いている登場人物として見えてくる。戯曲が演劇作品になるまでの言葉の質感が変化するグラデーションを目の当たりにした。

9月17日、2回目のオープンリハーサルが行われる。中澤から観客に、今回の作品は5場構成であることが説明された。4時間にも及ぶリハーサルの中で、5場目の最初から最後までが数回繰り返される。一般的に、物語にかかわる創作物——演劇に限らず、小説やドラマ、映画などなんでも——は「どのようなエンディングを迎えるのか」ということが観客にとっての最大の関心事になりやすい。「ネタバレ」という行為は忌避され、制作者だけでなく受け手にさえも最大限の配慮が求められる。オープンリハーサルとは、それ自体がネタバレ的ではあるものの、特に物語の終盤を繰り返し観客に見せるという、意図的とも思えるネタバレが繰り返された。リハーサル段階であるため出演者たちはそれぞれの手元にまだ台本を持ってはいるものの、ほとんど見られることはなく、もはや登場人物の言葉といって差し支えなさそうだ。児玉ではなくスワンの、斉藤ではなくディディの言葉として会場に響いていた。

©︎ 守屋友樹 / 京都芸術センター

言葉とダンスと場が相互に作用する舞台

2度のオープンリハーサルを経て9月21日から4日間にわたり本番を迎える[2]。ここで初めて、オープンリハーサルで見ていた舞台のかたち——会場中央、観客と向き合う位置に長机と椅子が配置され、音響のためのスピーカーやMacBook Proが置かれている——は、仮の配置ではなかったことが分かる。板張りの床に、スポットライトなどはなくシンプルに室内を照らす照明器具。京都芸術センターのフリースペースという場所を、ほとんどそのまま「引用」するような形で舞台は構成されている。音楽を流す、動きに合わせた効果音を鳴らす、ナレーションなどその場にいないはずの人物も舞台上で発言する、劇作家がほほえむように見守る……そういったふつうの上演では観客に見せない部分を、ネタバレ的に正面から見せている。特に松原が終始公演を見つめ、時に上演に参加する様子は印象的だ。自らが手掛け、編み上げた言葉たちが出演者を通して独自に歩き出し、そして踊りだす言葉を傍観するその姿は、作者と作品の関係性を示すかのようである。

オープンリハーサルからの変更点として強く記憶に残ったのは、ディディの右足にまつわる動作だ。観客から見て舞台の奥側、左右の隅の方に小さなテントが置かれている。下手側のテントには児玉によるスワンが、上手側のテントには斉藤が演じるディディが主に出入りするのだが、ディディはテントの前に立つと、右足を跳ねるように後ろに蹴り出してから中に入る。オープンリハーサル時点では、歩く、止まるといった動作の延長でテントに入っていたが、本番では不自然にも思える右足の動作が加わっている。この動作は、ディディにとって無意識の癖というより、その動きの不自然さから自らに課した決め事、呪縛、あるいは願掛け、祈りのように思えた。多くの言葉を自在に操るディディの、自己への身体的な束縛のように感じられる。

一方、スワンには身体的な制約はこれといって見受けられない。むしろ自由にダンスをする様子をディディに褒められるほどである。スワンは雄弁であるため、台詞だけ聞いていればコミュニケーションの不自由さはまったく感じられない。しかし例えば以下のような場面がある。戯曲から引こう。

「た、た、たとえばーー君がいるだーーけでこころがーー」
「恋なんて! いわばエゴとエゴのシーソー——」
「感動した(小泉純一郎)!」

この他にもヒットソングや著名人の決め台詞を交えた、どこか借り物のような言葉を話す場面がいくつかある。自身の感情を他者に伝えようとするとき、一般的に広く流通する言葉の中からやりくりして話すことは一見楽なようで、選択肢は狭くなる。とはいえ借り物の言葉というものは必ずしも人を不自由にさせるとは限らないのではないだろうか。

スワンが思ってもいないクリシェを思わず口にしてしまうこと、自分の恋心をヒットソングに代弁してもらおうとすることは、言葉に対する軽薄さのようにも見える。一方で、ディディがバスの案内音声の「ヘイアンジングウシュライン」という音と「平安神宮」の違いを面白がっていたことが耳に残り、自身もつい「ヘイアンジングウシュライン」とつぶやくようになった変化は切実な恋心ゆえのようにも思える。そういういじらしさから、借り物の言葉を悪者だとは言い切れなくなる。言葉は変化する。オープンリハーサルで見たように戯曲は役者の発する音声から、徐々に登場人物の言葉へと変化していく。スワンが借り物の言葉を自分の言葉に変化させていくことも可能なのではないだろうか。

©︎ 守屋友樹 / 京都芸術センター

今回の作品では言葉のみならず、空間に関しても、既存のものを変化させていく姿勢が見られた。通路と床を遮る柵にある狭い隙間をまるで抜け道のように通り抜けることや、点検口のような小さな扉から人が出入りすることは、観客の空間の捉え方を変化させたことだろう。そしてスワンとディディも、お互いに語りかける言葉とダンスで関係性を徐々に変化させた。作品内における「変化」は、戯曲と演出が相互に作用しながら変更点を重ねて完成した今作だからこそ際立つ。制作方法と作品が共鳴した作品であったと言えるだろう。


[1] 本番でも会場となる京都芸術センター フリースペースで行われた、その名のとおり「オープン」な状態で行われたリハーサル。観客は会場を自由に出入りすることができた。

[2] このレビューは2023年9月23日の公演を元に書かれている。

神田恵理|かんだ・えり
音楽イベントを主催した経験をきっかけに、パフォーマンスについて書くことに興味をもつ。コント、演劇、落語など舞台芸術全般に関心がある。論集『5,17,32,93,203,204』に、劇評「外側から「僕」を見つめる――努力クラブ 第16回公演「世界対僕」をめぐって」を寄稿。浄土複合ライディング・スクール四期生。https://note.com/ringo_no_sin


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