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「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-」展レビュー

「自然」の人工性をほどく、植物の感受性

よるのふね

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ピピロッティ・リストにおける植物のモチーフは特異な現れをする。作品随所に映し出される動的な草花のイメージと、鑑賞者の身体を弛緩させる展示空間によってみちびかれるのは、「植物的」といえる感受性ではないだろうか。

回顧展となる本展では、作家が主な媒体としてきた映像作品が中心をなしており、映像が投影される面は、壁や床、天井から、食器の並んだクロスの上《愛撫する円卓》(2017)、卵パックや充電器などの日用品の表面《アポロマートの壁》(2020-21)、そして訪れた者の膝の上《ひざランプ》(2006)と、多岐に亘る。風景画に投影される像が刻一刻と移り変わる《クララ・ポルゲスは絵筆を浸した》(2020)は、どこまでが絵画自体の面であり、どこからが投影されている像なのか判別がつかない。また、他作家の陶磁器作品の上に映像が投影される《タカエズ・トシコに捧ぐダブル・ビッグ・リスペクト》(2020-21)において、面にされた「作品」はリストが投影する像と一体化し、独立して捉えることがむずかしい。


何を見ているのか掴みづらい知覚の混乱は、どう解すべきかという認識の混乱としても現れる。代表作《永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に》(1997)で、スキップする女性が嬉々として行うのは、車への破壊行為であり、破壊行為を笑顔と敬礼で肯定するのは、パトロール中の警察官だ。これらのコントラストがもたらす違和は、見えるものと意味するものが取り結んでいた秩序にゆさぶりをかける。また、初期作《わたしはそんなに欲しがりの女の子じゃない》(1986)においては、ビートルズのポップソングを引用改変し、はげしく繰り返す女性の声と姿をゆがませノイズをかけることで、歌というメッセージが投げかける意味解釈に混乱を引き起こしている。見ているのは何かという知覚、どの意味を示すのかという認識へのショックは、「自然視」していたひとつの見方が、「人工的」につくられた一面に過ぎないことを浮かびあがらせる。

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Pipilotti Rist, Ever Is Over All, 1997


その一面的な見方を破壊するものとして現れるのが、植物のイメージだ。それは、展示室の角の二面に投影される前述の《永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に》の左面で、車の窓ガラスを次々破壊する凶器となる花の形に象徴的に現れる。また、左面で凶器となる花は、右面に投影される花のイメージと連動しており、この右面でうごめく花々の映像は、左面における人々が行き交う街路の世界を浸食するかのように映されている。この浸食する植物のイメージは、他作品においてもくりかえし現れる。それは、リビングルームを模した広い展示空間の壁面に、環境映像のように連続ループで投影される《もうひとつの身体》(2008/15)、《不安はいつか消えて安らぐ》(2014)、《マーシー・ガーデン・ルトゥー・ルトゥー/慈しみの庭へ帰る》(2014)に顕著であるが、葉脈や繊維にとどくまで接写される植物のイメージと、どの部位であるか判別がつかないほど接近した人体のイメージが、交じりあうように投影されることで、鑑賞者の身体感覚を侵食するような効果を生みだしている。くわえて全体の展示空間の設えは、このような身体への「浸食」を促進する。靴をぬいで毛足の感触のわかるカーペットをすすみ、ソファやクッションの傍らで作品に向きあう、ベッドルームやリビングルームなどの生活空間を想起させる展示空間は、鑑賞者の身体を弛緩させることで触覚的な感覚へとみちびき、作品世界と身体の境界をとかしていくかのようだ。終着から始点にループが可能な順路もまた、映像作品の多くで採られるループ構造に通じ、ストーリーのような線的な認識をほどいていくつくりをなしている。


以上のように受けとれば、展示タイトル「YOUR EYE IS MY ISLAND/あなたの眼はわたしの島」は、「視点」や「見方」など、認識や解釈とむすびつけられがちな眼の感受性を、島という身体が優位の触覚的な感受性へとひらくイメージとして浮かびあってこないだろうか。その触覚性は、中枢に依らず部位ごとに知性をもって有機的な営みをくりひろげる植物的な感受性となって、ピピロッティ・リストの展示空間に満ちている。

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ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island -あなたの眼はわたしの島-

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