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故郷の伝統を守ること。繋ぐこと。 ハーレー乗りが見据える木曽漆器の未来

インタビュー相手 未空うるし工芸 岩原裕右さん

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好きなものがあるというのは、とても素敵だなと思います。
未空うるし工芸の岩原さんにとって、それはハーレーダビッドソン。

好きなものや、興味のあることを活かした仕事は、やりがいもあるし楽しい。
ただ、岩原さんが漆の仕事に就かれたことには、特別な重みも感じます。

繰り返される「残していきたい」という言葉。
伝統のある土地や家業に生まれた人が、自然に持っている覚悟のようなものを感じて、
「僕は長男だから」といった言葉が自然に出てくるのには驚きました。

今回は、岩原さんの大切になさっている、物、人、そして土地のお話です。


JR木曽平沢駅で降りて、旧中山道の細い道を抜けると広がる、沢山の漆器店が軒を連ねる集落。木曽平沢は重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている漆工町(しっこうまち)。400有余年の伝統を誇る木曽漆器の中心産地だ。
江戸情緒の残る街並み。その入り口のような場所に、未空うるし工芸があった。

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現れた岩原さんは、キャップのつばを後ろに回してかぶり、ラフな印象の方だった。作務衣姿の職人が出てこなかったことに、こっそり胸を撫でおろす。背中越しに見える引き戸の奥は、漆を乾かす室(むろ)という押入れ棚のような場所。飾り気のないものづくりの場所だ。

岩原さんはとても落ち着いていて、正対して答えを真っ直ぐくれる。

統的な漆器を扱う集落の中で、彼の代表的なブランド「ジャックロ」の小物は異彩を放ち、度々メディアにも登場されている。それで、インタビューされることに慣れているのかな、と思ったが、そうではなかった。肚が据わっている、覚悟が出来ているということなのだと分かるのは、もう少し話を聞いた後になる。

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独立されて3年目のこの工房は、2度の転職を経て家業である漆器の会社に入った当初から個人の仕事場として借りていらしたのだとか。

「僕はどの業界にいても独立心みたいのはすごくあって。皮製品の会社のときも、金属加工をやっていたときも、自分でやりたいっていう気持ちはすごくあったんですよね」

自分でやりたい。

「30歳間際の『このままでいいのかな』って頃に父に声かけてもらって、この業界に入って13年になるんですけど、後継ぎって形で入ったわけではないんですよ。会社には家業を継ぐこととは関係なく入りました」

後継ぎは、以前から家業に入っていた従兄と決まっていたのだそうだ。ゆくゆくは独立するつもりだと、入った当初から周囲にも伝えていたという。

「独特な仕事なので独立を考えた時に近道なんじゃないかな、とは思ったんですよね。例えば金属加工は設備だったり、場所だったり、必要じゃないですか。でも漆の業界は道具とかそんなに……まぁ、高いですけど、自分で道具を作るっていう世界なので。すごく安易ですけど独立するには近いんじゃないかって」

「結果的にそんな甘い世界じゃなかったので、『独立なんていつ出来るんだろう』って入ってすぐ思いましたけど」

ベテランも含め、町には100軒以上の職人がいる。30代後半、40代が2,3人という中にあっては、彼の父親でも『若手』と呼ばれるのだそうだ。

そんな中、岩原さんが生業としてやっていく上で、自分が経験してきたルーツを活かせることが『異素材に漆を塗る』ことだった。

未空うるし工芸で作られている製品は、所謂、漆器類とは異なるものも多い。取材時、室で乾かしていたのは静岡のお店から発注を受けた椅子の脚。畳の座面に漆塗りが似合いそうだ。そして、見せていただいたのは漆塗りを施したハーレーダビッドソン。堆朱塗(ついしゅぬり)という技法が施され、玉虫色に鈍く輝く車体。シート部分は皮革製品に漆塗りを施す、独自の技法が使われている。

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バイクに興味を持ったのは高校生の頃。
サッカー部で仲の良かった友人たちと、いつかみんなでツーリングへ、と話した。自然とシルバーのアクセサリーや革製品にも興味は広がった。ゴリゴリのバイク乗りを想像して、ちょっと笑ってしまう。

「ですかね(笑)。チェーン付けたりとか、所謂バイク乗ってる人の恰好ですね。イメージとそんなに違ってないと思います」

「20代前半は、どっぷりバイクやシルバー・革小物のアクセサリーのことに、仕事でも没頭していて。で、25になる歳に帰ってきました」

岩原さんは、新卒で就職した建築関係の仕事を1年で辞めた。高校時代の友人を頼って東京に出てアクセサリー販売の仕事に就く。勤務店は渋谷。ワンフロアに5社ほどテナントが入っていて、彫金、革細工……同業種の知り合いが沢山できた。

「国産バイクも持ってって。楽しかったですよ。むこうはハーレー人口が多いので、すごく街中で見るんですよね。『もうそろそろハーレーいくじゃん』なんて言って、ローンでハーレーも買って」

高校以来のバイク仲間である双子と3人で横浜の青葉台の方にガレージ付きの一軒家を借りて、そこで『ガレージライフ』を楽しんだ。

「どうであれ、25歳位には帰らなきゃなっていうのがありました。自分で決めてましたよね、ずっとはいられないな、っていうのは」

帰らなきゃなと、決めていらしたんですね。

「僕は一応長男なので、地元をほっぽって県外に行くことが良いのだろうかって葛藤が若いなりにあったんですよ。長男の性というか、俺が地元に残って親父やおふくろの面倒見るのかなって頭は、あったので」

そもそも、建設の仕事を辞めた後『家のことを考えて悩んで答えが出せないでいるのに』と喧嘩になって、そこから1週間くらいで上京したのだという。決断したら早い人だ。

東京での5年を経て塩尻に戻った岩原さんは次の仕事として金属加工業を選ぶ。ハーレーのパーツを自分で作りたくて、溶接免許を取りたいというのが最初の動機だったのだそうだ。

「なんでも作れるじゃないですか!で、なに作ってたかって言うとショベルカーのアーム部分とか」

ハーレーよりだいぶデカいじゃないですか。

「今の仕事とは感じが全然違いますね。でもその時に鉄を勉強したので、今の仕事をしているときにも、どうすれば漆が食いつきやすいかとかは何となくわかったりします」

建築業も、革製品の仕事も、金属加工業も、すべて今の仕事に繋がっている。

「人との巡り合わせが良かったです。何十年経ってから突然連絡を取っても力になってくれる人たちと出会えたのは宝です」

次に塗ってみたいものは何かと尋ねてみた。はじめは「バイク(ハーレー)塗ったら、もう何が…」と冗談交じりだったが、次第に表情は真剣なものに変化した。

「何を塗りたいってことより、やってきたことをブラッシュアップして今後の仕事に結びつけていくのが課題だろうなと思っています。いずれにせよ、もう少し人を入れなければなというのはありますね」

後継者不足は他の産地同様に木曽平沢の課題になっている。後継者を育成する為にも、雇用できる体力のある会社を増やしたい。

「独立して特に思いますが、個々がどれだけ伸びても、木曽漆器というバックボーンがなかったら結果ブランド力が薄れます。これから僕らが仕事をしていく中でも、残していかなければいけない文化・技術が産地にはあると、なんとか残したいと考えています」

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商売をしていると利益重視にならざるを得ない。ただ、それでは伝統工芸品としての漆の仕事を守れない面もあるようだ。同じ製品でも伝統的な本堅地(ほんかたじ)の下地で作ると3万円、4万円になるものが、化学塗料を使えば1万円で作れる。現代では、下地も化学塗料を使うのが実は主流だそう。

「でも、昔ながらの技術があるから、代用の現代の製品が引き立つ。逆もしかりって側面もあるから。それぞれ生き残ってかなきゃいけないと思うんですよね」

産地を守る為に、漆器全体の価格を保持し、人を育てることにお金を使える物の売り方をしたい。

「僕が出来ることは今まで目が向いていなかった人たちを引き付けること。新しいものは武器になると思っています。メディアに取り上げられ、一瞬でも木曽漆器というワードの検索件数があがったときに、どんな準備をしているかは個々の努力につきるじゃないですか。僕は僕なりのやり方で、自分のためにやることが産地の為にもなれば、と思っています」

岩原さんは、職人さんでいらっしゃると同時に、経営者なのだという印象を強く持ちました。彼は、これからも『産地を残す』ことを考えながら我流の道を進まれるのでしょう。

「経営者、ですか?僕は直観の人間なので、たまたま運が良くて・・・・・・・・奇跡みたいなもんですよ」

(取材・編集 石田名保子)

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