見出し画像

草木と生きた日本人 一 若菜

一 記紀に見る草木

 古くから、日本人は、草木を大切にし、草木と共に生きてきました。その事実は、『古事記』、『日本書紀』をはじめとする神典はもちろん、古へ人が愛読してきた『万葉集』や『古今和歌集』などの和歌文学にも明らかです。
 たとへば、『古事記』を見てみませう。『古事記』の上巻、神代のことが記されたこの巻には、次の記述があります。なほ、以下に引用する『古事記』と『日本書紀』は、『日本古典文学全集』(小学館)によつてゐます。

「次に風の神、名は志那津比古神を生みき。次に、木の神、名は久々能智神を生みき。」

 これは、伊耶那岐神と伊耶那美神との国産みのお話しの中の一つですが、木の神様は、岐美の二柱の神によつて産みたまふた存在なのでした。兵庫県西宮市の公智神社にこの神様はお祀りされてゐます。
 私ども日本人の先祖は、草木は神様が産みたまふたものとして、『記紀』によつて語り継ぎ、神社に神様としてお祀りして大切にしてきたのでした。
 また、『日本書紀』には次の記述があります。

「一書に曰く、(中略)初め五十猛神天降りし時に、多に樹種を将ちて下りき。然れども韓地に殖ゑず、尽に持ち帰り、遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。」

 少し難しいので、現代語訳で見てみませう。
「初め五十猛神が天降つた時に、樹の種をたくさん持つて下られました。しかし、韓地(筆者注 新羅のこと、朝鮮半島にあつた国)には植えずに、故国に持ち帰り、たうとう筑紫(九州)から始めて、大八洲国中に種をまき、全国を青々としげる国にされました。」
 この神代のお話しは、素戔嗚尊が出雲国に天降りされた際の別伝です。簡単にいふと、素戔嗚尊は五十猛神と共に、国中に樹を植ゑられました。なほ、素戔嗚尊は『古事記』で、海を治める神とされました。
 海の神様が各地に木を植ゑられたといふ言ひ伝へはとても面白いでせう。海と山とが一体不可分の存在であることを示してゐますし、古へ人はそのことを感覚的に知つてゐたのでせう。
 現代でも牡蠣の養殖をしてゐる畠山重篤さんに通じるところがあります。畠山さんは、「森は海の恋人」といはれ、植樹運動を展開されました。畠山さんは、平成二十一年にNPO法人森は海の恋人を設立されてゐます。
 『記紀』においてこのやうに記された草木でしたが、わが国最古の現存する歌集である『万葉集』となるとどうでせう。

二 万葉集と草木

 ところで、『万葉集』といふ書物の題名に「葉」の字が使はれてゐますが、これはどのやうな意味があるのでせうか。少し寄り道をしてみませう。
 古くから「葉」が意味するところは何なのか、学者の間で検討されてきました。議論は大きく二つに分かれます。一つは、「万の言の葉」説。多くの言の葉といふ意味です。そして、もう一つは、「万世」説です。万世、つまり永遠に残し伝へるといふ意味です。私は、後者を支持してゐます。

 さて、その『万葉集』を開くと、最初に出てくるのは、第二十一代雄略天皇の次の御製(天皇が作られた御歌を御製と申し上げます)です。訓み下しにして紹介しませう。なほ、いふまでもありませんが、『万葉集』の歌は全て漢字、すなはち万葉仮名で書かれてゐます。それを仮名交じりにしたものを訓み下しといひます。

篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそは 告らめ 家をも名をも(『万葉集』巻一ー一)

 御製の意味は、「籠を、良い籠を持ち、へらも、良いへらを持つて、この丘で若菜を摘んでゐるお嬢さん、家をお言ひ、名をお言ひなさい。この大和の国はことごとく私が治めてをるのだ。私こそ告げようではないか。家をも名をも」となります。
 ここで注目すべきは、御製の内容やこの御製自体が本当に雄略天皇の御製かどうかではありません。私は、「この岡に 菜摘ます子」といふ点に注目したい。もちろん、この岡がどこをなのかわかりませんし、菜を摘む子がどのやうな子かもわかりません。なほ、江戸時代の土佐国(現在の高知県)の万葉学者である鹿持雅澄は、その研究の成果である『万葉集古義』の中で、「この女は、良き家の優れた人の娘でせう(現代語訳)」と述べてゐます。しかし、それも真実かどうかわかりません。
 また、現代を代表する万葉学者の中西進氏は、「春先、もえ出た若菜をつむのは村をあげての楽しい野遊びの行事で、このとき女性集団に男性集団が歌いかけ、求婚するのがならわしであった」と『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)の中で述べてゐますが、どうでせう。この点は「わからない」といふことにしておきませう。

三 菜を摘む子の菜

 しかし、敢へて雄略天皇の御製として舞台を初瀬の朝倉あたりとしてみませう。そして、菜を摘む子、つまり求婚される子がそれなりの身分の人であつたとして、この子が摘んでゐた菜が一体何であつたかといふことです。
 ヒントとなりさうなものを簡単な古典から探つてみませう。
 平安時代。光孝天皇に次の御製があります。

 君がため 春の野に出て 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ

「百人一首」の十五番目の歌として知られてゐるこの御製にも若菜が詠み込まれてをり、何か共通する手がかりがありさうです。
 諸書によると、この若菜は、せりやなづななどの春芽を出しそめた食用の素で、あつものにすると邪気を払ふものとして古来から珍重されたさうです。醍醐天皇の延喜年間より、年中行事として、天皇に若菜を供することが行はれるやうになつたと『公事根源』にありますが、光孝天皇の御代には、まだかうした行事はなく、長寿を言祝ぐためであつた、と『百人一首』(角川ソフィア文庫)の解説にあります。
 この解説によれば、光孝天皇の御代(西暦884年から887年)においては、年中行事として確立したものではなく、あくまでも春の若菜を食べることによつて、長寿を願ふものであつたことがわかります。
 雄略天皇の御製に戻りませう。菜を摘む子が摘んだ菜が、何かはわかりません。春の野遊びの若菜摘みであつて、長寿を願ふ行為ともいへないと見られないこともありませんし、諸書も若菜が何であつたのかまで言及してゐません。
 そこで、次の歌を見てみませう。『万葉集』を代表する歌人、山部赤人の歌です。

 春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野を懐かしみ 一夜寝にける(『万葉集』巻八ー一四二四)

 意味は、「春の野にすみれを摘みに来た私は、野があまりにも懐かしいので、一晩寝てしまつたよ」となります。この歌で、注目すべきは、摘む対象が抽象的な若菜といふ表現ではなく、具体的に「すみれ」と言つてゐる点です。
 すみれは、『日本国語大辞典』によると、

「スミレ科の多年草。各地の山野の日当たりのよい場所に生える。高さ一〇~二〇センチメートル。全体に細毛を散生する。葉は長さ三~五センチメートルの三角状披針形で、先端は円く長柄をもち根もとに束生している。早春、葉間から花柄を伸ばし、先端に長い距のある紫紅色の花を横向きに一個ずつ開く。果実は、長楕円形で三稜があり、三裂して小さな種子を飛散する。和名は「すみいれ」の略で、花の形が墨壺に似ているところからこの名がある。漢名に紫花地丁を当てることがある。また、「菫」の字は、中国で、スミレの一種に菫菫菜とあるところからあてられるが、この「菫」は「芹」の意という。」

とあります。
 葉は、細い柳に似てゐて、蒸して食べると甘いさうです。
 かうした点から、必ずしも断定はできませんが、初瀬の岡で若菜を摘む子がすみれを摘んでゐたと見ることもできませう。
 ただし、雄略天皇と山部赤人との時間の隔たりは二百五十年ばかり。『万葉集』最初の歌を現代の学者に従ひ、舒明天皇の御代頃としても、約百年の赤人の時代とは百年の隔たりがあります。しかし、若菜を摘むといふ行為は、平安時代まで行はれてゐたことを思ふと、若菜から生命力をいただき、野に遊ぶ伝統が古へ人に一貫してゐたのではないでせうか。

 私は、ある時、近鉄に乗り初瀬の地に行き、白山神社のあたりで雄略天皇の御製を口ずさみました。現在の初瀬は道路もあり、車も走り、民家も多くあり、古代の俤を残してゐませんが、目を閉じれば、王者が若菜を摘むをとめと会話してゐる姿が思ひ浮かびました。
 若菜、それはもしかしたらスミレかも知れません。古代において、スミレを通して、王者と若い女性が結ばれるといふのは、何ともいへないロマン、そして草木を通じた美しさがありませう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?