【ホラー小説】eaters 第21話(最終話)
◆あらすじと各話は、こちらから
一週間後。
この日の午後、鮫島は製薬会社の研究所に来ていた。
週に二度、病院での勤務は午前のみとなっている。
研究所で鮫島は、今もスクアリーの改良にいそしんでいた。
帰り支度をして、パソコンの電源を落とそうとした時、スマホが振動を鳴らした。
「……そうですか。分かりました。引き続き、監視をお願いします」
電話は沼澤瀬奈の監視役からだった。
週に一度の定期連絡だ。
パソコンで被験者データのフォルダから、瀬奈のデータを開く。
画面に表示されたのは、二度に渡る検査結果。
接種した翌日、肉や魚、乳製品などの動物性たんぱく質以外を受け付けないといって、瀬奈は母親に連れて来られた。
その時の検査結果の数値は、一部がやや高かった。
接種して、まだ間もないせいだろう。
だが、一か月後の定期検査で、数値は落ち着いてくるどころか、むしろ高くなっていた。
ホホジロザメの遺伝子が濃くなっている証拠だ。
鮫島にとっては、想定外だった。
この時、鮫島は瀬奈に付けていた監視役から、行動のすべてを聞いて知っていた。
瀬奈は、神社の裏で子猫を食べた。
別の日も、それぞれ同じ中学に通う女子生徒を襲って食べた。
母親も、家で飼っている金魚が減っていると、瀬奈を怪しんでいた。
おそらく、金魚も瀬奈が食べていたはずだ。
生きた獲物を狩るという行為が、抑えていたはずの本能を目覚めさせてしまったのかもしれない。
二度目の検査で、より異常を示していたのは、そのせいとしか思えなかった。
こればかりは実証してみないと分からないが、さらなる研究が必要だ。
鮫島は、どちらも母親へ「異常なし」と伝えた。
あの時点で、打てる手がなかったからだ。
鮫島はパソコンの画面をジッと見つめた。
この一週間、監視役は瀬奈の姿を見ていないという。
なぜか同じ日から、父親の姿も見なくなったそうだ。
二人とも、家にいるのは間違いないらしい。
家を出入りしていたのは、母親だけ。
考えられるのは……二つしかない。
父親は襲われて亡くなり、瀬奈は家で監禁されている。
または、すでに二人ともこの世にいない。
瀬奈への実験は、失敗だったとみていいだろう。
瀬奈には、理性が欠ける面が見られた。
飼っている金魚を食べ、人を襲って食べるくらいだ。
スクアリーは、未成年にはまだ早過ぎたのかもしれない。
未成年の被験者は、瀬奈が第一号だった。
こちらもまだ研究の余地があるが、今後もその機会を得るのは難しい。
成人への実験では、肉や魚、乳製品以外も問題なく食べられている。
接種直後を除いての平常時は、血の匂いを嗅いでも理性が働く。
ただし、いまだに生肉や生魚を食べる時は、瞳と歯に異常が見られる。
問題は、そこだけだった。
薬の完成は、あと少しのところまできている。
スクアリーは、鮫島と病院、そして製薬会社が一丸となって取り組んでいるプロジェクトだった。
現在、ほかにも数名の被験者が、この社会に溶け込んでいる。
その被験者達にも監視役が付けられているが、今のところ問題を起こした者は一人もいない。
みな、気を付けて過ごしているおかげだ。
かといって、開発初期のスクアリー接種は、失敗の連続だった。
失敗作は、この研究所の地下に今も幽閉されている。
とても人前に出せない姿で、理性も失っているからだ。
パソコンの電源を落とし、研究所を出た鮫島は黒のセダンに乗り込んで、自宅へと向かった。
鮫島の自宅は郊外にある。
頑丈な門構えと、敷地をぐるりと囲む高い塀で、外から中の様子は見えない。
リモコンで門を開けて中に入ると、立派な白亜の家が見えてきた。
家の前には、テラスから続くプールがある。
「ただいま」
家に入って、洗面所へ向かう。
手を洗って鏡を見つめたあと、コンタクトを外して眼鏡を掛けた。
キッチンに向かい、夕食の準備を始める。
今夜の食事は、ミディアムレアのステーキ。
慣れた手付きで、サラダとスープも素早く調理する。
食卓に料理を並べたあと、一枚の皿を取り出した。
そこにステーキ用の分厚い一枚肉を生のまま、二切れ載せて食卓へ運ぶ。
外に目を向けると、テラスの窓が開けっ放しになっていた。
「凛花、まだプールにいるのか?」
テラスから外に出て、プールの底に目をやった。
水底でゆらりと泳ぐ妻の姿がある。
「おいで。夕食にしよう」
水面に顔を出した凛花が、プールから上がってくる。
水着も着ていない。
ふくよかな胸に、くびれたウエスト。
スラリと伸びる長い手足。
肉感的で美しい裸体。
鮫島は、妻にバスローブを着せた。
水を滴らせる長い黒髪をタオルで優しく拭いてやったあと、手を取って食卓までエスコートする。
椅子を引いて座らせたあと、鮫島も向かいの席に腰を下ろした。
正面の妻を見つめる。
若く見えるが、鮫島よりも三歳年上だ。
切れ長の瞳、スーッと通った鼻筋、艶のある唇。
凛とした顔付き。
ただ、その見た目は、普通とは違っていた。
瞳の色は黒く、頬の片方や額、両手両足など、皮膚の一部が灰褐色に変色している。
楯鱗といわれる小さな鱗におおわれ、触れるとヤスリのようにザラザラとした、文字通りの鮫肌だ。
「さぁ、食べようか」
鮫島がナイフとフォークを手にした。
凛花の前に置かれていたのは、生肉を載せた皿だけ。
皿に顔をうずめ、鋭くとがった歯先で犬食いをしている。
凛花はスクアリーの被験者、第一号だった。
十年前、凛花は白血病から続発性免疫不全症候群になった。
妻を救おうと薬の開発を始めたものの、完成にはまだ遠かったが、凛花に猶予は残されていなかった。
悩んだ末、鮫島は開発途中のスクアリーを凛花に接種した。
結果、凛花は健康を取り戻したが、その体内でホホジロザメの遺伝子が暴れ出した。
スクアリーの代償は、あまりにも大き過ぎた。
全身のあちこちに、皮膚の変色が見られた。
黒く染まった瞳と、ノコギリのように鋭くとがった歯の先は、食事をしていない時でも戻らなかった。
言語障害で言葉も発せず、食べるものも生肉と生魚しか受け付けない。
食事の時も、常に犬食いだ。
理性を失っていた凛花は、看護師などに狂暴な面を見せていたが、なぜか鮫島だけは違った。
凛花のために、鮫島は身を粉にして研究に没頭していた。
それを知っていた凛花の記憶に、鮫島の深い愛情が刻まれていたのだろう。
鮫島は凛花のストレスを軽減させるため、研究所から自宅に引き取ろうとした。
広かった庭をプールにし、外から見えないよう敷地の周りに高い塀を張りめぐらせた。
すべては、凛花のためだった。
あれから改良を重ねたスクアリーを接種しても、凛花に変化は見られなかった。
今も色濃い遺伝子を抑えるには、薬を完成させるしかない。
遺伝子をコントロールさえできたら、凛花は元に戻る……はずだ。
未成年の瀬奈にスクアリーをすすめたのは、小百合の必死な思いが伝わってきたからだった。
何一つ、保証できなかったとしても。
藁にもすがるその思いは、鮫島も同じだった。
何が起きたとしても、健康で生きてさえいてくれたら、それでよかった。
いつかは奇跡が起きてくれるはず、と信じて。
鮫島は、今も希望を捨てていなかった。
食事を終えた凛花が顔を上げた。
満足そうに、ニッコリと微笑んでいる。
黒い瞳。
鋭くとがった歯の先。
灰褐色に変色した肌。
異様な美しさを放つ妻に、輝いていた頃の姿を取り戻してやるには、今以上の研究成果と被験者のデータが必要だ。
たとえ、どんな犠牲を払ったとしても……。
すべては、愛する妻のために。
[完]
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