次の一手を考えるときに
人生は長い、と言う人がいる。
人生はあっという間だよ、と言う人もいる。
色々なことを皆が好き勝手に言う世の中だから、自分の芯を強く持つことが大切なのだと思う。これを読んでくれているそこのあなたも、自分の芯をぶらさずに、内容を咀嚼してくれたら、と思っている。
自分がいかに家族の影響を受けて育ってきたかは、以前書いた。教育一家で育ってきて、ある意味深く考えもせずに、縁という言葉で、選択肢のない世界に彩りをつけた。そして、教員の道を選んだ。
その選択がキャリアとしての40年少しの中で間違っていたかどうかは、自分のキャリアが終わってみるまで分からないだろう。
少なくとも出会いという意味で、自分のあの時の選択に後悔はない。素晴らしい生徒、同僚に出会うことができたのは自分の財産だから。それで十分なのかもしれないけれど。
ただ同時に、キャリアとしての自分の成功については、その成功がどんなものなのかをイメージしながら、20代も中ごろに差し掛かったあたりで考えはじめていた。
根底にあるのは、親に頼りたくないという思い、そして自信がキャリアの中でどこまで上り詰めることができるのかを試してみたいという思い、この2つだった。
親に頼りたくない、というのは以前のnoteで書いたことがあるから、再掲する必要はないだろう。これまで父親に頼る度に恩を売られてきたからこそ、今後はできるだけ頼りたくないと、そう思っているのだった。
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どこまで上り詰めることができるか、という点ではどうだろうか。
(文化的)再生産、という言葉がある。世の中には金銭的にも文化資本的にも恵まれている家庭がたくさんあり、恐らく僕自身も社会的にはその一員になるのだろう。けれども父親に頼ることを止めるということは、自分自身の力で道を切り開いていかなければならないということだ。そんな中で、どこまでできるのか。そんなチャレンジングな思い。
僕にはロンドンの日本人学校に通っていた時の同級生で、親が商社勤務であったりして、金銭的に恵まれた世界で生きてきた知り合いがそれなりにいる。彼らの全てがそうだとは言わないが、残念なことに、中には「親が達成してきたこと」と「自分自身で勝ち取ってきたこと」の境界線が曖昧になっているように見える人たちもいる。
親が「良い仕事」についていたから。親の経済状況が豊かだったから。そうやって成し遂げてきたことは自分の道にはならないと、僕はそう思っている。
無論、先にも書いたように、僕が成し遂げてきたことだって半分くらいは親の投資の結果だろう。父親がいなければイギリスに行くことはなかっただろうし、今こうやって英語をツールに仕事をすることもなかっただろうから。
けれども、そのことに自覚的であろうとしていることと、その境界線を曖昧にして良いところだけを取って生きていくことは似て非なるものだ、と思う。
だから、これ以上は親とはできるだけ関係ないところで生きていく。
それが、自分が大学院を休学し教員になったこと、そして教員を辞め、コンサルタントという仕事についたことの大きな理由だ。
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大学の教員を両親に持ち、教育学部に進み、教育学研究科に進んだ自分を、親も含めて誰もが大学教員になるのだろうという目で見ていたと思う。実際僕自身、自分に論文を書く才能がないなと思うまで、大学教員になることを夢見ていた。けれども自分の能力不足に気づいたとき、悔しさと同時に親とは違う仕事につくことができるのだという、どこか解放されたような気持ちもあった。
そんな思いで勤めた学校現場を、離れた理由はいくつもある。ここには書くことができない理由も2つくらいはある。自分の中での一つのけじめ、区切りとして、どこで去るべきかということを考えていた時期だった。結局、転職活動はダラダラと1年くらいしていたと思う。
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自分に最も近しかった人たちにも、最後の最後、オファーが出そうになるまで明かさなかった。オファーが出そうな段階で話をしたのは、記憶が間違っていなければ3人だけだ。だから、急に話を聞いた管理職、学年団、仲の良かった先生は面食らったと思う。僕にとっても、区切りだなんだといいながら、難しい決断だったのは間違いない。
それは名残惜しいと思わせてくれる、素晴らしい生徒や同僚との出会いがあったこと、そして次に待つ挑戦が本当に正しい道なのかという確証が持てなかったからだと思う。
今でもその確証は持てていないが、どちらかというと確証は持つものではなく作っていくものかもしれないというのが最近の考え方だけれど。
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話を戻そう。今回のメインテーマは、自分がなぜ次の一手としてコンサルタントという仕事を選んだか、だった。
僕の仕事は人事コンサルタント。この言葉は「人事」と「コンサルタント」という2つの名詞にさらに分けることができる。
「人事」については教育と親和性が高かったこと(心理学がベースになっている部分も多く、教育心理学、発達心理学と重複することもある)、そしてなにより自分の関心が学校組織に移り変わっていっていたことにある。組織の変革、という広い言葉で表すと抜け落ちるものも多いが、ざっくり言えばそんな感じだ。変革といっても人の行動という少しミクロなものから制度の変更というマクロなものまで、色々とある。それらに関わるという意味で、人事は面白い領域だという感覚があった。
「コンサルタント」という領域についてはどうだろうか。
最近、東大、京大などいわゆる偏差値の高い大学の就活生の中で人気の職業であると聞く。実際僕の周りにもコンサルタントになっている東大生は複数いて、彼らがきっかけの一つであることは間違いない。
同時に、外から見ていたコンサルタントという仕事は、トーク力、クライアントとの対応で柔軟性が求められるものであるように思えていた。そんな特徴が、どこか教員との親和性を感じさせたのだと思う。
転職活動の面談の中で、クライアントに対してインタビューをすることも結構あります、と言われたことも動機となった。研究のときからインタビューは自分の主たる手法であって、得意だと思っていた分野でもあった。心のどこかにあった研究に対する名残惜しさのようなものが、コンサルタントという仕事と僕を結びつけたのかもしれない。
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そんな風にご縁をいただいて人事コンサルタントになったわけだが、これは契機であって、「上り詰めたいという思い」とのつながりについてはまだ書いていなかった。
コンサルタントという仕事は、一般的に給与水準が高い(だからこそ東大生、京大生などがこぞって目指すのだろう)。外資系であればなおさらだ。僕は給与が仕事の価値を全て表すとは思わないが、生きていく上でお金が必要なことも事実だ。欲しいものがある、誰かと飲みに行きたい。あるいは結婚したり親を介護したり。歳を重ねるにつれて、お金、給与の重要性をひしひしと感じるのだった。その中には、当然、誰かのために使うお金も含まれる。
そして給与が自分の仕事の成果を数値で表してくれる最も明確でわかりやすいものであるがゆえに、「上り詰める」ことを測る指標として選んだ。それだけのことだ。
けれども給与だけで選んだわけではない。前提には自分が興味のあること、関心のあること、挑戦してみたいことがあり、その上に給与という味付けのソースをかける。ソースだけでは美味しくないが、その下のお肉と合わさることで味が際立つ。そんなイメージ。
実際にコンサルタントとして数ヶ月過ごしてみて、まだまだ試用期間で首を切られる可能性もある分際なので偉そうなことは何も言えないが、少なくとも転職を決めるときの条件、こと「上り詰める」という点については、そんな基準だった。
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夢がない、という人もいるかもしれない。
その次の一手は何を描くのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。
転職したことで、失ったものもある。転職したことで、得ることができなかった経験もある。
けれども何かを手にするとき、僕たちは何かを失うのだと思う。
逆に言えば何かを失うとき、僕たちは何かを得るのだ。
次の一手を考えるとき、僕は何を失い、何を得るだろうか、そんなことを最近は思う。上り詰めるというのは、社長になりたい、億万長者になりたい、そんなことではない。自分が実現したい世界を作っていくためには、パワーを持ちたい。そしてパワーだけではなく、資金もいる。「誰かのために使うお金」にはそんなニュアンスも含まれる。
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話が色々と分散した。
僕はもともと先を見通すことがあまり得意ではなくて、10年先、20年先を想像することがあまりできない。そんな時はいつも、昔恩師に言われた「目先のことを一つ一つこなしていくことが成果につながるのだ」という言葉を思い出す。
ブレない芯を持ちながら、目先の課題に真摯に、誠実に向き合っていくこと。そうすることで繋がる道がきっとある。一歩一歩進んでいくことには時間も努力も必要だけれど、次の一手はそういう中から決まっていく。
そんな気がしている。
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