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TRY MY LIMIT

いつも限界までやってきたつもりだった。
そこで踏ん張るか、退くか?
その選択が必ずしもいつも正しかったとは思わない。
間違えだったと気づいた時にはもう手遅れで、後悔したことも何度でもあった。

物事を自分の尺度でしか測れない。
他の人なら「もっとできるはずだ」と思うようなことでも、自分自身で限界を決めてしまってそこで諦めてしまう。
そこが自分の尺度では限界なのだから、自分のポテンシャルではそれ以上は求められない。
他の人が100%とだと考えている地点と、ぼくが考えている100%の地点が同じとは限らない。アスリートのように、数字や結果としてその地点が明確に示されるのであれば良いが、「生きていく」ということの中では、その指標は明確には示されない。

「他人の気持ちを思い計るのが苦手」というのは、自分以外の人が物事の限界を図る時の尺度を想像することができないということにもつながっているのだろう。
だから自分で「ここまでだな」と限界点を決めつけて勝手に納得してしまう。

若い頃には、(将来の夢とか、どんな仕事に就きたいとかではなく)やりたいことはたくさんあった。
水泳をやっていた頃には、ロスオリンピックを見て、水泳選手になって大きな大会に出たいと思い描いたこともあった。
音楽に夢中になっている時には、ギターやシンセサイザーを弾いてステージに立ってみたい、なんて思っていた時期もある。また、プロデューサーになって、自分の好きな音楽を作ってみたいとも考えていた。
介護の仕事を始めてからは、本やDVDをみたり研修会などで、さまざまな介護技術を学んで、要介護者・介助者双方に負担なくより安全な介助法を身につけ、それを発信できるような介護士になりたいと思っていた。

しかし、「自分にはそこまでの能力がない」と自分の中で限界を作ってしまい諦めてきた。ただ、その限界点が本当にやり尽くした結果ぶつかった限界なのか、そこまでの情熱を維持できなくて決めてしまった限界なのか、自分でも分からない。

今この時も、「発達障害」だと分かったことを理由に、「この先仕事が見つかるはずがない」と甘えているだけなのではないかとの、自分自身への疑念が頭の中で渦巻いている。

何か一つ、信じられるものがあれば、今からでも何かできるはずだとは思いつつも、その信じられるものが見つけられずに、ただただ毎日をぼんやりと過ごしている。いつもひとり悔し涙を流しながら…。


限界が来たと思うなら それは奴らのまやかしさ
悔やむ思いをしたくなきゃ やるだけ全て打ち込め

望みが一つあるのなら ここがあんたの正念場
落ち込む暇などあるものか ふざけちゃ困るぜ

答えが出ない時もある 何が何やら分からねえ
分かったフリでもしてみるか 分からないフリそれもある?
                                                        
THE MAGNETS / TRY MY LIMIT (HOSHIKAWA)


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