Something Sweeter
1994(平成6)年、大学4年の夏前にぼくは地元へ戻ってきていた。
そして、小学生の頃からの友人と一緒に音楽制作を始めることになる。
その当時、バイトで貯めたお金を注ぎ込んで、KORGの01/Wというシンセサイザーを購入した。シーケンサー内蔵のオールインワン型で、ある程度のトラック作りはこの1台で十分作ることができた。
そして、友人の機材と合わせて共同で曲を作り始めた。
一番最初は、ぼくと友人の音楽の共通点である、打ち込み系の音楽にサンプリングを使用したテクノポップ風のインスト曲を何曲か作っていったが、やはりシュプリームスやロネッツなどのガールズポップの雰囲気を盛り込んだ、ヴォーカル入りの曲を作りたいということになり、友人の知り合いの女の子をヴォーカルに迎えて、曲作りを始めた。
録音用にTASCAMの8トラックMTRを購入し、曲とリズムトラックをぼくが作り、そこに友人が上物を被せる形でバックトラックを完成させ、練習スタジオでヴォーカル録りをして作り上げた。
一応、形にはなったが、ぼくも友人もあまり納得のいく仕上がりではなかったので、もう少しコンセプトを固めようと、お互いにCDを持ち寄りミーティングを重ねた。その当時流行り始めていた、アシッドジャズやニューソウルあたりがお互いのお気に入りだったこともあり、SOUL Ⅱ SOULやシンプリー・レッド(屋敷豪太さんの影響は大きい)、BRAND NEW HEAVIES、ヤング・ディサイプルズ、インコグニートなどのUKのバンドや、TimbalandやBabyface、ディアンジェロやThe Roots、エリカ・バドゥ、ローリン・ヒルなどのアメリカのシンガーやプロデューサー、日本では、かの香織、ICE、MONDO GROSSO、SANDIIなどを思い描いていた。
そして、決定打となったのは、新進気鋭のプロデューサー、レイ・ヘイデンをプロデューサーに迎えてSwing Out Sisterがカバーした、デルフォニックスの「LA LA Means I Love You 」を聴いた時だった。
ソウルをベースに、ゆったりとしたミドルテンポでグルーヴを持ったキャッチーな曲。フロアライクなものよりも、リスニングに向いた聴きやすく心地よい音楽。そんな方向性が決まり、ユニット名をWORKSHYのアルバム収録曲から貰って『Something Sweeter』と名付けた。
ヴォーカルには新たに、友人のバイト仲間の女の子を迎えて、心機一転デモテープ作りを始めることとなった。
作曲はぼくが担当した。その頃、AppleのノートPC「PowerBook520」を購入し、シーケンスソフトにMark of the Unicorn社の「Performer」を使用していた。アレンジは友人がぼくが渡したデモの骨組みをもとに作ることもあれば、ゼロから組み立てたりして、8トラックMTRに録音していった。
歌詞は、曲と一緒に思いついた時はぼくが書き、書けなかった曲は、友人かヴォーカルの女の子、あとカメラマンの友人が書くこともあった。
そんな調子で、10曲程デモを録音していったが、某楽器店のデモテープコンテストに2曲エントリーするくらいで、特にライブ活動をするとかまでには至らなかった。
友人と共同で制作をしていくと、彼のアレンジ能力の高さに驚かされた。ぼくは、ソウルを意識した生っぽいドラムとベースの打ち込みに、エレピで和音を鳴らすのがやっとで、その上に音を重ねていくということが全くできなかった。出来上がったデモを聴いても、友人がゼロからアレンジを組み立てた曲の方が遥かに完成度が高かった。
そして、友人も曲を書くようになり作ってきた曲を聴いた時に「彼には敵わない」と思ってしまった。
今までよりリズムが強調され、よりR&Bやエレクトロニカ的なアプローチで、フロアライクなダンサブルなアレンジ。アレンジにしっかりと溶け込んだメロディ。
このユニットでのぼくの役割はもうなかった。
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