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多様性について考えるオカマ

時にコミュニティというのはオーケストラの様な物だと感じるワタクシ。

ずっと演奏は絶えず続いていて、大きく時代が動くとき、価値観が変わるとき、即ち曲が変わるとき、全員が一致団結して指揮者の指導の下、上手に次の曲に進むこともあれば…

「え?私まだ曲変えたくないんだけど」
「え?俺はもっとアップテンポが良い」
「私はスローなのが良い」
「それじゃやだ」

などなど、個々に美しい音色を奏でるスキルのある人たちが自己主張をし過ぎると、全体で何を奏でたいのかさっぱりわからないただの雑音・騒音になり下がり完全なる不協和音の出来上がり。

まぁ、それは指揮者が悪い場合もあれば、指揮者に従って強制されるがままに嫌な曲を奏でるのが良いともならないのが社会・コミュニティである。

とはいえ、各奏者が輝いて良いソロのパフォーマンスのパートでは、皆が皆、それぞれの奏でる音色を尊重して応援してあげればよい。

ところが昨今、そのソロのパート最中ですら美しいバイオリンの音色が響き渡る最中に突然、ゴーーーーーン!!と銅鑼がなったりする。

台無しである。

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今、いろんな分野で、政治でもなんでも、いろんな衝突が世界中で起こっているけれど、日本ではLGBTの事もまだまだ随分過渡期にいるんだなぁと思う。

例えば、細かく考えてみれば、同じLGBTに該当する人の中でも、どんどん権利を主張して戦いたいという人もいれば、そもそも世に注目されたくなく、コッソリ・ヒッソリしていたいという人もいる。

オネェ系のタレントがテレビでいじられるのを見て喜ぶ人もいれば、「自分もそういう風に見られるんじゃないかと思って、そういうのはイヤだ」という人もいる。

LGBTというワードが浸透したことで気持ちが楽になった人もいれば、その枠組みに組み込まれることに抵抗を持つ人もいる。

色物って思われたくない!と憤る人もいれば、色物扱いされるからウケをとれるし、それが嬉しいという人も。

でもそれはまだ過渡期だから。

ノンケが女形の歌舞伎役者とか、宝塚の男役とかやっても、既に地位を確立しているものについては、そういう扱いにはならない(のはそれらの芸術性が高いのもあるけれども、定着しているからというのもあると思われる)。

全奏者が一斉に全く違う曲の音を出したら大変な騒音になるのと同じ。LGBTについては今は、ノンケも含め、各奏者がそれぞれソロパートを奏でて「さぁ、次はどんな音楽にしようか?」っていう時期。

反対意見だってあってもいいと思うけど、あくまでも愛を持って、お互いを尊重したうえでの事。それが出来ない人はオーケストラから追い出されるべきじゃないかしら?

そんなワタクシは、言葉では上手く表せないけれど、そんなソロパートが終わって、皆で一斉に次の曲に進んで楽しく演奏をする時期が来てくれればいいなと思う。

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