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言葉は優しさにもなり、鋭利な刃物にもなる

言葉というのは、時に誰かを救う優しさになります。

傷ついている時に勇気をくれる言葉、落ち込んでいる時に励ましてくれる言葉、すごく嬉しい時にさらに嬉しくなるような言葉をかけてくれたりと、私たちは言葉によって優しさや前を向く勇気をもらうことができるし、与えることもできます。


しかし、その逆がしっかりと存在しているのも事実です。

言い換えると、言葉は鋭利な刃物にも姿を変えるということ。

これについては、現代に生きる我々は皆が知っておかなければいけないことであると考えています。


最近はSNSが社会的に当たり前のツールとなり、使用していない人を見つけるのがもはや困難となりました。

確かに便利なツールではあることに間違いはありません。

ただ理解しなければいけないのは、見ず知らずの誰かから浴びせられた汚い言葉によって命を絶つ人さえ、出てきてしまっているという現実です。


これまで、イジメなどにおいても、身体的な暴力より、言葉の暴力が多くの武器となっていたことは言うまでもありません。


でも、私たちはどこかで言葉の正しい使い方を習う機会はあっただろうか?

言葉に対しての意識の向け方を学習する機会はあっただろうか?


こういう言葉を使おう、こういう言葉は使ってはいけない・言ってはいけない、などなど、はっきりとは誰からも言われることはほとんどありません。


でも、言葉というものは、この世に生きている限り全ての人が使用するものです。

正しい使い方を知らないと、人を傷つけてしまったり、殺めてしまう可能性があることを私たちはしっかりと自覚し理解しなければならない。


言葉や伝え方は、技術です。

意識的に身につけていく必要があります。


言葉が誕生したのは今から約70,000年前のことだと言われています。

それが定かかどうかは置いておいたとしても、言葉ができる以前は石などを叩いて気持ちを伝えていたそう。


全ての人が使う言葉が技術であるとするならば、それを磨く努力をしなければいけません。

私が提唱する「コトバドリブンメソッド」もそのための一つのツールだと思ってもらえれば良いと思っています。


私は2人の子供の父親で、妻・息子・娘と暮らしています。

ちょっと家族に見られたら恥ずかしいですが、妻・息子・娘3人の、凄いなぁ~と、思うところがあります。


それは、「ありがとう」と、さらっと、たくさん、言うことです。


そうです、そうなんです、とても当たり前なんです。

当たり前のことなんです。

当たり前のことなんですけど、私は恥ずかしくてなかなか言えなかったりしたのです。


というのも、私の実家の家族では、あんまり「ありがとう」がなかったように思うのです。

家族だから恥ずかしいというのが一番の理由であるとは思いますが、

それでも、ご飯を作ってくれたり、部活の練習着を夜に洗濯してくれた母親に対して、

遊戯王カードのキラが出るまで買い続けてくれた父親に対して、「ありがとう」と、なかなか言えない子供だったと思います。


でも、妻・息子・娘はどんな小さなことでも「ありがとう」と言います。

「醤油取って~」→「ありがとう」とか、こんな具合にですね。


私はその光景を見て、とても嬉しくなります。

嬉しくなると同時に、凄いなぁーといつも思います。


今、試しに、「ありがとう」と、声に出して言ってみてください。


「ありがとう」


言ってくれた方、有難うございます。


実際のところ、1秒しかかかってないですよね。

その1秒の「ありがとう」は、誰かへの優しさとなります。

そして今、ほんの少しだけ、優しい気持ちになっていませんか?

「ありがとう」の言葉は、必ず自分に返ってきます。


普段言えてない「ありがとう」を、今日は誰かに言ってみませんか?

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