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怒りの取説

怒りは悪くない

私ほど「怒り」という単語に囚われてきた人間はいないんじゃないかと思う。
「あなたの怒りは病気を引き起こす」と呪いの言葉を吐かれたほど、表面上の私からはわからない怒りが溜まっているらしかった。
そもそも喜怒哀楽が激しいはずで、子どもの頃からパニックを起こしていた(あれがパニックだったと気付いたのは大人になってからだったが)。
でも、その感情は誰にも受け取られず、スルーされ、「ここで生きていくなら自分の感情を味わうよりも、他人を観察しなければならない」と深く心に刻んで生きてきたようだった。

大人になって「あなたには怒りがある」という指摘を受けたが、その指摘は「だからあなたはよくないのだ」という否定を含むものだったため、ずっとずっと自分自身に対して厳しくなり、また怒りをためるという悪循環に陥った。

怒りという感情はただの感情である。という情報を得たのはそれから20年は過ぎていたが、その言葉は私の心を緩めるものだった。
そして、やっと自分自身の抱える闇を見ることが可能になった。

怒りは私を守っていた。ある時は活力になり、ある時は悲しみや寂しさでいっぱいになることから私を守った。
時折、怒鳴る人を見かける。いじめる人を見かける。「怒っちゃだめだよ」と思う。怒られるのは嫌だし。
でもそれは、「怒り」の表現であって「怒りそのもの」ではない。

自分自身にわきあがる「怒り」は「どう扱ったらいいのか」を学べばよかったのだ。それだけのこと。

愛とか許しとか

「怒り」を持つ自分が汚く思えていた時、「許し」「愛」が足りないとも言われた。そうなのか?私に愛はないんか?(CMではない)
「怒り」と「愛」と「許し」は共存するはずだ。なぜなら、違うものだからだ。どちらかでどちらかが消されることはない。

そこに「溜まった怒り」を消す魔法はなかった。
それは違うベクトルの話だった。

頭で考えても心をなんとかしようとしても「怒り」はなくならなかった。

それは私の体に、動作の癖として存在していた。
恐怖で縮こまる体、血管の収縮、頭がぎゅっとして、目が小さくなって、耳が聞こえなくなる。そういうものとしてそこにあった。

身体から解放する

最初に、身体にトラウマが刻み込まれていることがわかったのはアレクサンダーテクニークのレッスンだった。
気功をしても変化がなかったのに、アレクサンダーテクニークで鎖骨がはっきり現れたのだった。鏡を見て驚いたことを今でも覚えている。

また、自分自身の辛さをどうすればいいか模索している時に、「痛みを与えてみたらどうだろう」と思いついたこともあった。
けがをする痛みではなく、軽く圧迫することで、親から与えられなかったハグの感覚を得られるのではないかと思ったのだが、癒す効果はたしかにあった。

瞑想でも呼吸を使うが、「息を吐く」ことも身体操作だ。
私は子どもの頃、股関節に問題があると思われていて、運動をあまりしてこなかった。それでもまあまあ鬱屈せずに育ったのは、児童合唱団に通っていたおかげだと思っている。
歌を歌うことで、肺を動かし、言えないことも歌詞が代わりに言ってくれるという効果もあった。

今は、YouTubeでボクササイズをしている。
過去、私に意地悪をした人などを思い浮かべてエアボクシングをするのはとてもすっきりしてよい。
こんなに怒ってたのかと自分でびっくりする。
いい人と思われたくて我慢していたものが出てくる。勝手に。

また、誰かから嫌なものを受け取った時は、身体のどこかを動かして払うのがお勧めだ。
手をぶらんぶらんと振るだけでも、何かが出ていく気がする。
誰も見ていないところで跳ねるのもいい。
これは、格闘技の練習でパンチなどを受けた人が、痛みを逃す時によくやっている。それを見て、身体の痛みだけでなく、精神的な痛みにも効くのではないかとやってみたのだ。
精神的な痛みとはいえ、ちゃんと体にダメージが来ているわけで、それをいかに早く「自分のいつもの状態に戻すか」が大切なのではないかと思う。

身体が動かない時もある

私は長い間、鬱で寝込んでいたこともあるし、何をどうしてもフリーズしてしまうことの多い人間である。
その時は無理をしないで寝るに限る。そして、悲しくなったら泣いてしまう。涙を出す。
昔のことを思い出してめそめそすることは、過去スルーしたことを完了させる大事な作業だと思っている。

精神論や宗教的な側面だけで怒りを捉えないことが大事

私たちは肉体を持っている。
この肉体とともに成長してきた。
身体が何を言おうとしているのかに気づけば、自分を責めすぎないで済むのではないだろうか。
鬱の時、心が弱っている時には、つい自分を攻撃し、何度も何度も言葉で自分を罵ったりする。世間で言われている「ダメ人間」とは私のことだ、と何度も思ったし、怒りを解消できない私は救われないんじゃないかと思ったこともある。まったく何を恐れていたのか、今では不思議だけど、それぐらい追い込まれていた時期があった。

脳が疲れすぎている時には休むことがとても大切だけど
少しだけでいいから(呼吸だけでもいい)身体に触れて動いてみてほしい。
無心になれる瞬間を作ろう。

生きている限り、身体に緊張は続く。どこかしら圧をかけている。
仕方のないことなのだ。溜まってしまったものに文句言っても、な。
だから、自分で自分をリラックスさせる方法をいくつか持っておくのがいいと思う。整体や鍼もお勧めなんだが、それはまた。


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