人が自分の可能性は無限大だと思ってくれていることについて

タイトルを読んで、???となったことだろう。

そのまま「人が私自身の可能性は無限大だと思ってくれていること」について思うことを書こうと思う。

私は自分に自信がない訳ではない。ある程度仕事はできると思っているし、求められていること以上の価値は何においても出そうとしている。

ただ、特に抜きん出て自分が「できる人」だとは思っていない。

だから、いつも人から関心されたり、褒められたりすると、「え?」っとキョトンとしてしまう。

そんな自分だが、最近自分は「いやーーここまでは無理でしょ、受からないよ流石に」なんて思っていたりしても、

周りは私が合格したり、何かちょっとしたいいことがあると「まあそうでしょ、そうなると思っていたよ疑問なくね」と

私の可能性をアターーーり前に信じて疑っていないのだ。

正直、自分ではそれがとても不思議で変な感じである。

私自身の思う自身の価値ノットイコール周りがおもう私の価値

のようなのだ。


なんでこんなことになっているのか考えてたどり着いた自分なりの答えは2つ。

1、親の育て方

2、いろんなことへの期待がもはやない

というもの。


こういうことを分析してどんなことになるのか、何もいいことはないかもしれない。

ただ、私だけでなく、結構私以外にも同じようなことを考えている人、経験している人たちはいるのかもしれない。

そんな人たちにこのストーリーが届くといいな、なんて少し思いながら分析をしていこうと思う。

私の自己評価、自己への期待度が周囲のそれとかなりずれている理由の一つ目、

1、親の育て方

私の両親はいわゆる中流家庭の人たちである。2人共大学を出ていて、1人は博士号まで持っている。もう片方も最近になって修士をとり、現在博士号過程の真っ最中だ。

勉強するのは当たり前、と言ったような人たちだが、アカデミアにばかりいるせいか言い方は悪いが、「井の中の蛙」と言ったような人たちだ。

お金もそこそこもらえるが、そこそこのため割とケチケチする。ビジネスの世界の人たちは金だけ稼いでいる汚い人たち。と言ったようななんとも偏見の塊であった。

そして2人共学歴コンプレックスを持っているという面倒臭さ。(世の中でトップと言われる大学には2人とも行っていないが、それでも個人的には2人共結構優秀だと思う)


まあ、とにかく、色々と偏見とコンプレックスを抱えた両親の元で育つと色々とコメントをあらゆるライフイベントにおいてされるものだ。

母は、私が志望の高校に合格できるか微妙と担任の先生に言われた際には、

「まあそうよ、あなたには難しすぎる。高望みなんてしないしない。」

と言われた。(因みに母よりいわゆる偏差値が高い、もはや母は受けることさえ考えられなかった高校)

父は、私が大学受験をした際にどうしても行きたい大学があり、(浪人までした)勉強していた際に、

「どうしてそこまでするんだ。もう一個下のレベル、もしくはどこでも大学なんて一緒だよ」と言ってきた。(因みに私がどうしても行きたかった大学は父が受からなかった大学)

こんな調子で、私の両親は私が何か上のレベルのもの、未知のものに挑戦するたびに、後ろ髪を引くような、頑張ることの意味を否定するようなコメントを私の人生でずっとしてきた(今もなおそう)のである。


正直、どうして自分ができなかったこと、頑張りきれなかったことを子供がやろうとする際に素直に応援したり、実際に実現できるかは正直分からないとしてもただ、「がんばれ、やってみたら、きっとできるよ」と声をかけることはできないのだろうか、とずっと疑問に思ってきた。

私が親だったら自分の子供(もはや自分の子供でなくても)今を生きる若者にはどんどん活躍してほしいと思うのだが、、、。

という感じなのだが、

私はたまたまやりたいことがあると絶対にそれを手に入れるタイプなので、こんな親でも無視してただ好きなことを突き進んでやってきた。

その結果、今があるのだが、親に自分の可能性を信じてもらえず、もはや何かに挑戦しようとすると「そんなことしなくても、求めすぎ」と止められるような環境で育ったことで、

さらに先、上を目指す際に自分のポテンシャルや可能性を信じられなくなってしまったようだ。

次に

2、いろんなことへの期待がもはやない

だが、これも1に関係するのかもしれない。

私は両親に上記のように期待されずに、可能性を信じてもらえずに育った。その結果、親に話が伝わる人になってほしい、自身が挑戦したい理由を聞いて、わかってくれる人になってほしいという願望、希望をある一定の年齢までは親に対して抱いていた。

ただ、10代も後半に差し掛かる頃、あ、この人たちには期待しても無駄だ。私が求める自分を応援してくれる温かい親に彼らがなることはないのだと私はやっと悟った。

なんというのか、「あ、親だけど親じゃないのか」とそんな悟りであった。

これは親に期待して、その期待を裏切られ続けることに疲れたのもあり、傷つきたくなくなったのもあり、親の気分によっての評価、待遇に気持ちを持っていかれたくないとやっと気づいて思ったこともその理由としてある。

まあ、色々理由はあるものの、私は親だけでなくあらゆることに対して期待しなくなった。

期待しないと楽なのだ。

まあ、そんなこんなで私は自分の可能性を信じない、期待しない、そんな人になってしまったのだ。


ただ、とてもとても幸運なことに、大学に入って以降、知りあった先生たち、友人、恋人は皆私の挑戦をいつも応援し、私の可能性を信じるどころか、「可能性も何ももちろん、あなたはやろうと思ったことはなんでも成し遂げるよ」と完全に私の可能性を信じ切っているのである。


正直、本当に変な感覚である。

逆に挑戦することさえも避けるような時には、「え、なんで興味あるんでしょ?きっとうまくいくよ、きっと楽しいよ、やっていたらいいじゃん」と

挑戦しない私を不思議がるのである。


大学時代を過ごし、やっと何年かたってこの感覚に慣れてきた。

私って確かになんでもできるのかもしれない、私の両親の言葉を無視して突き進んできたつもりが、やっぱり引っ張られている部分があったのだと。


今、自分の周りで私の無限の可能性を信じてくれる人々が本当にありがたい。

もしかしたら今、そんな人たちにまだ囲まれていない、もしくは囲まれていることに気がついていない人たちがいるかもしれない。

そんな人たちに知ってほしい。

「あなたにはなんでもできる。」

信じられないならやってみればいい。うまくいかなかったなら言い訳をしてないで、どうしてうまくいかなかったのかを考え、分析し、また挑戦すればいいだけなのだ。

「あなたには無限の可能性がある」

そう私も日々、自分に言い聞かせ、周りからのその言葉に感謝しながら生きている。








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