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【歴史探訪】築山御前落命の地

 今から40年前、今年と同じように「徳川家康」がテーマでNHK大河ドラマが放映されていた。主役は劇団四季出身の滝田栄さんで、原作は山岡荘八先生、脚本は金八先生で有名な小山内美恵子さんだった。
私が見た最初の大河ドラマであり、今や世界的な俳優となられた役所広司さんの出世作と記憶している。

 私はこの大河ドラマの影響もあってか、5月の連休に休みが取れるなら浜松城に行きたいと申し出た。当時よく父が出張で浜松に行っていて土地勘があったこと、ちょうど我が家はマイカーを購入したころであったしで歴史好きな両親は二つ返事で快諾してくれた。

築山御前霊廟所「西来禅院」

 画面上部のパンフレットを見てほしい。これはこの浜松旅行の際、手に入れた資料の一部である。今考えると昭和時代の貴重な資料だ。
左端に写っている「西来禅院」とは築山御前霊廟所となっている寺院のことであり、本堂とは別に「築山御前月窟廟」が存在する。
戦後荒廃していたというが、ある婦人が匿名を条件に多額の浄財を寄進し、永く祀ることになったということが書かれている。

佐鳴湖畔と大刀洗の池

 当時、私は10歳前後であった。
先に「西来禅院」の「築山御前月窟廟」に手を合わせてきたばかりだったので、佐鳴湖畔に立った時、こんなに寂しいところで切り殺されたのかと衝撃であったのをいまだに忘れず記憶している。近くに大刀洗の池があるのだが、既に水はなく石碑と説明板が残っているだけである。敗者の常というにはあまりにも酷い、私が徳川家康をあまり好きになれない理由の一つがここにある。
 実は大刀洗の池の石碑には30年後、仕事で浜松医療センターのバス停に降り立ったときに再び遭遇することになる。当時と同じで徳川家康の負の部分と改めて認識したのであった。

信長の依頼(命令)か、家康の意思(忖度)か?

 前述のパンフレットには、直木賞作家の杉本苑子先生、日本女子大の西村圭子先生がそれぞれ築山御前と子息信康に関するある雑誌に書かれた著作を載せていた。
2つの著作に共通していたのは、築山御前が夫である家康に殺された妻とされていることだ。お二方共に歴史の中の女性に関する著作があるだけに家康にとても手厳しい。

 西村先生の言葉を引用追記してまとめておきたい。
「改正三河後風土記」に以下の記述がある。
信康の嫁である徳姫(信長の長女)が酒井忠次を通じて父信長に差し出した手紙の内容が記されている。
・信康との仲を築山御前は諫言して不和にしている
・築山御前は甲州の唐人医師減敬を内に入れ、これを使者として武田勝頼に送り、信康が武田に味方するよう工作している
・信康はいずれ敵方になると思われるので油断してはならない
・築山御前は武田勝頼に三河が武田方のものになったら、所領安堵のため自分を武田のしかるべき者の妻にしてほしいといっている

ここだけ読むと築山御前は策士で悪と思われがちだが、
これは信長と忠次が書いた脚本によって作られたものであり、文体は個性的な信長の表現に似ていると記されている。

一方で杉本先生の言葉を引用追記してまとめると以下の通りとなる。
・織田家の息子たちより、家康の嫡子信康の資質ははるかに優れている
・(桶狭間の戦い後)駿河の今川義元を大伯父に持つ信康の胸底に怨念の埋み火となって穏されていた憎悪が一挙に報復の炎に育つ恐れは皆無とはいえない
・築山御前母子を死に追いやったのは彼らに流れる「今川の血」
・でっち上げられた武田勝頼と築山御前の通謀

また杉本先生はこの著作の最後にこう締め括っている。
 築山御前の無念は多様をきわめた戦国女性の中でも、そのあと味の悪さ、謀殺の陰惨さゆえに、わけて印象的な事例ではあるまいか

私も当時そう思ったし、いまなお2023年の大河ドラマで「改正三河後風土記」のシーンが映像化されたとしても、佐鳴湖畔の寂しさを思い出す度に夫である徳川家康によって後世に続く家の安泰のために粛清されたこと、築山御前が戦国の世にあまりにも無惨に散ったこと、つまりは信長の依頼があったとしても、すべて家康の意思であることを私は決して忘れはしないだろう。
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