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Playの奥深さ

よく西洋の親は子供を可愛がっているともいえるけど、甘やかしているなぁと思ったことがある。自分も甘々で育てられたと思っているが、この度、NZの幼児教育を学んでいてPlayの奥深さに痛感した。

カレッジから出された参考文献はどれも興味深い。が、量が多くてうんざりするのも事実。現実逃避と学んだことをアウトプットするのに備忘録として記載する。

まず、Playは子育ての根幹だということ。「よく学び、よく遊べ」と聞くように、それは日本でもそうだと思う。しかし、考えてみたらPlayはPlay fool, Play piano, Play football, Play card, Play motherなど汎用性が高い。まさにそれと関係していて、NZの幼児教育では子供達が、Playからほとんど全てを学ぶと捉えているような節がある。

Playで学ぶことに、いくつかの利点がある。この場合の利点は、教師主導の学びと対立させて考えている。

まず、精神面。Playは主体者がやるもの。つまり、子供が自分からやりたいと思ってやること。それは繰り返しやりたくなるからスキル・感覚・気持ちも磨かれる。Playが尊重される環境というものは、自分自身が大事にされていると感じられるという。自分で決定しているので、やめるものも自由。ルールを変更するのも自由で主導権を握っているため、安定した精神状態で新しいことに挑戦できる。

面白いなと思ったのは、Playだから怒り、悲しみ、憎しみ、希望、などの感情を表現することが許される。感情の練習ができる。という視点。子供が遊びで怒ったフリをしたり、泣いたふりをしているのをみたことがあったが、「そういうことか!」と感心した。この流れで、さまざまなPlayと複合的に合わさって感情のコントロールなども学んでいくという。

また、教師主導でやりがちな「結果を求めるPlay」は推奨されていない。例えば、何か作品を作ろうなど。ただし、結果ではなくプロセスを評価するといいらしい。具体的には絵の具をぐちゃぐちゃにしてなんだかわからない絵になったとしても、「絵の混ざっていく感じが面白かったね」など過程に注目する。これは正直なところ、難易度が高いが、大事だなと思った。

そして、身体性。子供はPlayの中でいろんな役になったり、ものを動かしたり、ダイナミックに身体を動かす。心は鳥になった子供は、普段は動かさない筋肉に力を入れることなどができ、身体能力が増す。また、子供には元来「自分がよく見えていない」という能力が備わっている。これは非常に大事なもので、そのおかげで大きな筋肉を使った動きだけでなく、小さな細かい作業までできるようになっていく。また、ごっこ遊びでは言葉遣いや人間関係などにもアンテナが張られ、Playが終わった後にも家庭内で観察するようになるらしい。

実は2000年代にPlayを重視する流れは世界的にあったらしく、昨今はアカデミックな能力が低くなっていたり、良い人間関係を作る能力が低くなっているのではないかという意見がある。これはある意味、Playベースではなく、Teacherベースに戻そういう流れでもある。しかし、NZ幼児教育は根強くPlayを重視する感じ(今は)。Teacherは環境を設定したり、子供が失敗しても大丈夫だと安心感を与える存在であるという意味で大事だというスタンス。これは前から同じなので、Playベースを補強するような論調の論文がいくつか紹介されていた。

先が読めないという意味でのカオスが予想されている21世紀。教育で最大の課題とされているレジリエンスは、人間が生まれた時に元々備わっているものではなく、こうしたPlayが尊重される環境で育つことができるとしている。

個人的にはとても良いなぁと思った。

でも、ごっこ遊びの最中にお互いの意見が合わず、強引に割り込む子に対して大きな声を出したり壁をバンバンと叩いたりする子どもを、じっと見ているのは経験が足りないと痛感する。小学校勤務時代はすぐに間に入り、上手なやり取りのモデリングをしていた。しかし、NZの幼児教育からすると、「なぜ、せっかくの感情表現の練習するチャンスを奪うんだ」と言われてしまう。

奥が深いPlay。

ちなみに、Playを重視するあまり、子供用のおもちゃが大きなマーケットになりすぎていると主張している文章もあった。こちらの大きなおもちゃ売り場には本当にいろんなグロテスクなおもちゃがたくさんある。

自分の子供のPlayは重視するけど、Playとおもちゃは別だな、と思った。