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代々木でお散歩。

真夏の日差しが降り注ぐ代々木公園。


遊びというか、そういう時の写真は基本的に感情に任せてテキトーに撮影するのですがこの時は作品の撮影だったのでちょっと硬いかも。



見るひとがいての写真や絵画ですが、見る側が見たいかどうかはあちら次第。
でも作者は周りがどうであれ、自我を保ち続けなければならない・・・無間地獄のように思ってしまいそうですが、いざやってると存外に楽な時もあれば逆も然り…でもトータルでは自我を保ててる割合が高いような印象を受けます。


おっと、お散歩であっても常に生き物は探しています。
クマバチでしょうね。必死こいて採蜜。少しばかりご勤労のご様子を撮らせていただきました。






自分はどのような人間か、暇な時によく考えるのですが如何せん好不調の激しい体質というか、そういう波を常に持っているのである決まった時間での私はその時間の点上でハイの方にいるかローの方にいるかで「私らしさ」すなわち、私がどういう人間かがその時刻時刻で変わってきてしまうわけです。

そのせいなのかは存じ上げませんが自身の性自認も常にあやふやです。基本的にはいわゆる「男性」側ですが同時だったり入れ替わったりみたいな感じで「女性」側になることがあるのがずっと右往左往しています。


常に、同じだけど違う自分が居る感覚…て言ったらいいのかしら。
うまく言える気がしない・・・(笑)

まぁそんなこんなで色々面白いことに出会ってきたので決して絶対悪ではありません。





「自分はどういう人間か」という暇な時に考えるこの質問そのものに対して私は少々甘えすぎているかも知れません。

それを考えることそのこと自体が「自分らしさ」を演じている可能性も否めませんし。





とはいえ(私事で恐縮ですが)、付き合いが長い友人や父上には「素直だ」と言われるのですよね・・・


これ言われるのは、私にとってはイレギュラー的な出来事でして・・・だってそうでしょう?色々な自分が入れ替わり立ち替わりしながら流動的に動いてきたから「自分という人間」は「自分という人間がわからない人間」だという認識をして、色々な仮面をかぶって行動してきたつもりが親しい人の目線からだとまるでそう見えてないんですから。
びっくりしちゃいます。笑

私は自分自身をある時間上の一点で客観的に見ることはできんので、他人からどう見えてるかはかなり大きな効力を持ってしまうんですよね。




まぁ偉そうにペラペラ喋ってますが、なんだか今の自分にしか残せなさそうな文章ってやつは、後から色々と役立つと思うちゃって見捨て置けないんですよね。

もったいないバァさんみたいな(笑)


私は常識というものが欠如しておりますので面倒なことも多いですし、他の生き物への羨望や畏怖は尽きませんが、それでも「ヒト」として生を受けた私はラッキーだと思います。


そりゃぁ、誰の目に留まることなくボルネオの山奥で毒蛇として生涯を全うするという世界線も悪かぁないのですが、それでもありがたいことに授かった文明や芸術というヒト独自のコミュニケーションツールを使える生き物であることは誇りに思います。


まだまだひよっこですが、芸術に関与すると世間とやらを今までとは違う方向から見ることができるので、一人でも多く触れることができ、完璧ではないにしろ観た人のこれからの自我を保つ助けになると信じて活動しています。

どうなるかは、私自身も存じ上げませんが、ね。(笑)

ため息も出ちゃう時もありますが、世の中にはハッピーもラッキーもいっぱいあると、あの曲の歌詞を思い出しながらお散歩していきたいですなぁ。



それでは皆様、ごきげんよう。




お楽しみいただけましたら幸いです^^