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H3ロケット初号機とたかしの青春

イプシロンに続きH3ロケットも打ち上げに失敗し、1人あたりGDPが台湾と韓国にも抜かれようとしていた2023年。
電気自動車にスマホ、家電も半導体も作れなくなったこの国で、駅前脱毛クリニックで働くたかしはほっと一息休憩をしていた。

「俺の選択は間違ってなかったのかな。お母さんに感謝しないと」

私は地方旧帝大院卒の父親、私立文系女子大卒の母親の元に生まれた。
父親は飛行機を作る機械エンジニア、母親は専業主婦だった。
名古屋空港の父の勤務先拠点の近くにある古い社宅で3人仲良く暮らしていた。
父が仕事で帰りが遅いたびに、母は「うちは稼ぎが少ないから」とたまに愚痴をこぼした。

「たかしはね、パパみたいになっちゃだめよ」

母は事あるごとに言っていたが、冗談だと思っていた。
小学校4年のある日、母は私を連れて、名古屋の名進研と書かれた建物に連れていった。

「あなたは医者になるの。日本では国立医学部以外は人間じゃないのよ」

社宅の村には同級生がたくさんいたし、愛知県では私立の中学に進むなど特別なことだった。
同級生と遊べずに、ゲームも禁止され赤い電車に乗って塾に通うのはつらかった。
同級生がファミコンやプレステ、コロコロコミックの話をする中、全く話についていけない私は小学校にも居場所はなかった。

小学6年生の大晦日には、名古屋観光ホテルに集められて、白いはちまきを巻いて正月特訓講習に参加した。
地元のテレビ局も駆けつけ、塾講師の「合格目指してがんばるぞー!」に続いて「おー!」と叫び、三が日も関係なく朝から晩まで勉強するあの異様な雰囲気は、きっと今後一生忘れることはない。

第一志望の東海と、第二志望であった滝に合格した。女子がいる滝に行きたいと少し思ったが、国立医学部合格者数全国No.1を誇る東海中学(東海高校)に入学した。
海部俊樹総理大臣、フィールズ賞の森重文、高須クリニックの院長やメルカリの創業者、建築家の黒川紀章まで出身者は幅広い。

中学1年生の「水練会」という名の100年続く伝統行事では、伊勢の二見浦でふんどしで何キロも泳がされ、秋には全校生徒が京都の知恩院に集められてお勤めを行った。
名古屋一の名門とはいえ、女子にモテることはなく、横浜の慶應義塾高校の学園祭には女子高生が1万人来ると聞いて、その格差を嘆いた。

高校の進路相談でも私に主導権はなく、母が「たかしは医学部にいけますでしょうか」とばかり教師に言っていたのを思い出す。

「医学部にあらずんば人間にあらず」という平時忠の言葉は、900年たった我が国でも、地方に住む女子大卒の教育ママたちに脈々と引き継がれていた。

1学年400人のうち100人以上が国立医学部へ行く東海高校は、2008年以来、国立医学部合格者数全国1位から陥落したことがない。

「たかしが学年の上位25%以内にいたら、医学部へいけるのね」

母が社宅で味噌汁を作りながら語りかけるその様は、自分のしたいことを言える雰囲気ではなかった。

社宅の近くにある名古屋空港は、中部国際空港ができるまでは飛行機が多く飛来し、航空自衛隊の基地もあった。
父親と空港の展望台へ行って航空機をみるのが密かな楽しみだった。

東大か名大、九大の航空宇宙工学科へ行って飛行機やロケットを作りたい、何度も言いかけたけど、父にも言えなかった。

高3の夏のオープンキャンパス。理IIIも考えてるんだ、と母に嘘をついて、東京大学工学部を見に行った。
東海高校の先輩にも連絡を取り、駒場と本郷を案内してもらった。
理IIIに進んで母を安心させてから、3年の進振りでこっそり航空宇宙工学科に進むのもありだと思ったけど、理III合格に自信はなかった。

一緒にオープンキャンパスに行った同級生のダイスケとは、飛行機や宇宙の話で盛り上がり、空港に一緒に行って飛行機を眺めたりするのが楽しかった。
B-747が爆音で離陸するときにダイスケが私の目をみて言った言葉は、いまでも忘れることはない。

「たかし、いつか一緒にすげえロケット作ろうぜ」

高3の秋、母に勇気を出して「航空宇宙やりたい」と言ったけど、返事は寂しかった。
「医学部以外は人間じゃないの」
「医者は平均年収1500万、開業医なら3000万、三菱重工で働いたら平均なんて700万ぽっちよ?名進研も通わせられないわよ」
「この国では老人にしかお金が流れないの」

言い返せなかった。

東大理I(工学部)はA判定を貰い続けたけど、私は結局名古屋大学医学部に進んだ。収入の圧倒的な差も、決め手だった。
母はママ友に鼻高々で、あたかも自分が人生の成功者かのように振る舞った。
母の学歴自体は変わらないのにと思った。
特に医学に関心はなかったので勉強は楽しくはなかったが、部活も適度にやったし、まあまあ楽しかった。

高校の同級生で国立医学部に進んだのが120人。高校の上澄みの大半が医学部へ取られていった。
彼らの多くが、東大京大の非医学部にも進学できる学力だった。飛行機やロケット、半導体や電気自動車を作る技術者・科学者が私の学校の1学年でも120人失われ、若者の税金を老人に垂れ流し延命する仕事に就いた。

「博士号とっても、就職先はないよ」
「理学部?京大理学部卒でも仕事なんてなくて年収300万だよ」
「東大工学部行くなら地方の医学部いって医者になったほうが儲かるよ」

愛知の私の学校の1学年で120人なら、毎年全国では何人が科学を研究する道を諦め、糞尿を垂らす老人の世話をして給料をもらう仕事に流れていくのだろう。

研修医を終えて医局に所属し、大病院へやってくる老人たちを毎日薄給で深夜まで働いて延命しても、老人が何かを産むことも、何かを発明することもない。
私の好きだったロケットに使う予算を削ってまで医療費と年金に金を回せ、子育て予算などつける必要などないとすら喚く。
私は医局をやめて、駅前の脱毛クリニックで働くようになった。

脱毛クリニックで尻の毛をむしるだけで、大学病院の激務時代の倍以上の年収2000万を稼ぐようになった2023年の冬、三菱重工はMRJの開発から撤退した。
H3ロケットの打ち上げは中止か失敗かの定義で揉めた日本は、翌月、結局ロケット初号機打ち上げに失敗し、責任者はマスコミの前で頭を下げていた。
失敗の定義を巡って技術者に執拗に質問を浴びせかけ、

「それは失敗といいまーすwありがとうございましたーw」

と笑いながら捨て台詞を吐き捨てた記者をみて、トイレに駆け込んで吐いてしまった。

東大のオープンキャンパスに一緒に行った高校時代の同級生ダイスケは、東大で航空宇宙工学を学んだあと日本でロケット開発に関わっていたはずだった。
Facebookを久しぶりにみると、2年前からアメリカ本土に移住して働いているようで、意味深なコメントが書いてあった。

「限界を感じました。さよなら日本。これからはアメリカでがんばります」

Facebookで高校時代の同級生を眺めていると、東大や京大に進んで科学の叡智や技術の発展を求めて頑張っていた同級生の多くが、GAFAMに引き抜かれていったり、米国に渡ったりし、一部は医学部再受験で医師になっている者すらいることに気づいた。
仕事がなく音信不通となった理学部の同級生もいる。

結局日本では老人たちのために、税や社会保障費で金を取られ搾取され、年金も賦課式で取られ、国家予算でも科学技術予算も子育て予算も奪われていく。
さらに、JTC企業では、終身雇用に守られた働かない高給取りの中高年に若い労働力が搾取され、何重にもお金が掠め取られていく。
ああヘルジャパン。

打ち上げ失敗のニュースで涙を流す技術者を見た時、日本には物を作る技術はないよな、と思いつつも、夢を追って一緒に科学技術の発展に情熱を注ぐのを羨ましいと思った自分がいることにも気づいた。
金はなくても、いい人生じゃないか。
自分には、情熱を注げる一生の仕事があるだろうか。

俺の人生は、間違っているのだろうか。それとも、正しいのだろうか。
ダイスケは俺のことを、どう思っているだろうか。
彼に久しぶりに、会いたい。飛行機を眺めながら、話したい。

たかしは、年収2000万で尻の毛をむしる作業を止め、気づけば成田空港に向かっていた。
H3ロケットの二段目のエンジンに点火しなかった灯火は、たかしの心の中に煌々と燃え移り始めていた。

(完)

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