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誕生日にお気に入りのマグを割った話(下)

 期せずして、私は今年の誕生日にお気に入りのマグを割ってしまった。
 どうしても捨ててしまう気になれず、修復を試みることにした。

  ひとまず瞬間接着剤で破片をくっつけてみる。幸いにして、これで9割がたかたちは元通りになった。もちろんこのままでは使えないが、だいぶ気持ちは落ち着いてくる。
 これから仕事の合間などに修復をしていくのだが、結局3週間程度休ませることになった。私が持っているマグは他にもあるのだが、これほど長く使わないのは15年のあいだで実に初めてのことだった。

 このマグを買ったのは15年前、中学生のとき。
 サッカーが好きな人なら(だけは?)わかると思うが、ロンドンを本拠地とするサッカークラブ、トッテナム・ホットスパーのものである。親がロンドンに連れて行ってくれたときに、スポーツショップで選んだものだ。

 このクラブ、通称スパーズはイングランド・プレミアリーグで「ビッグ6」として名を馳せるが、当時はまだ日本での知名度も今ほどではなかったと記憶している。(若かりしモドリッチとかベルバトフとかいい選手がいたなぁ、懐かしい。)
 プレミアリーグといえば、マンチェスター・ユナイテッドやリヴァプール、アーセナルといった世界的強豪クラブがいくつもある。私にサッカーを教えてくれた父も、スパーズを選んだことを訝しんで、最後まで「それでいいの?」と聞いてきた。
 それでも私はこの選択にとても満足していた。流行りとか王道を避けたがるひれくれたところがあったし、何よりネイビーと白を基調とした色合いが好きだった。

 以来、長いあいだ私はこれをそばに置き続けてきた。スパーズが毎年のように上位に絡んでくるようになると、「先見の明があったんだよ」などと父に冗談を飛ばしたりしていた。実は一度、親が落として把手がきれいに欠けたことがあったが、これは接着剤簡単に元通りにできたため、ずっと使い続けてきた。

 閑話休題、そんなことも思い出しつつ私は隙間時間に修復を少しずつ進めた。日本美術が好きな私にとって、割れたやきものといえば「金継ぎ」が思い浮かぶ。しかし金継ぎには漆などの材料もいるし、それなりに技術の習熟が必要であるという認識もあった。
 そこで今回は「なんちゃって金継ぎ」のようなことをしてみることにした。

 先に接着剤で仮止めをしてかたちはおおよそ蘇ったが、これはもともと食品に触れるところには使えない。改めて食品衛生法に適合したパテを買ってみた。探してみればあるものだ。
 これを割れ目にくまなく詰めて、また粉々になってしまった部分は元のような形に成形して埋めていく。時間を置いて固まったら、サンドペーパーで凹凸を減らす。

 ある程度まで整えたら、今度は食器に使える金のアクリル絵の具で、パテで埋めた部分をカバーしていく。いびつな線だが素人の手だ。致し方ない。

 5日ほど絵の具を乾かし、オーブンで焼きつける。レンジのオーブン機能を使ったのはいつぶりだろうか。かくして絵の具は固まり、最後に厚みが出すぎた部分を再度サンドペーパーで整えた。「なんちゃって金継ぎ」のできあがり。

 だいぶ凸凹は残っているが、かくしてばらばらになった陶片はマグカップのかたちに戻った。その辺のお店で新しいものを買うよりもお金がかかっているのだが、それでも私はこれでよかったと思う。

 こういったとき、潔く捨ててしまえるのはどんな人たちなのだろうか。
 現状に満たされている人?それとも過去に囚われない人だろうか。

 私がこのマグを使い続けていたのは、気に入ってきたからだけではない。むしろ単に、「変える必要性を感じないから」という理由の方が大きかっただろう。それが今回、壊れてしまって初めて自分がここまで愛着を持っていたとわかった。
 思春期の頃から私は家庭の中で辛い思いをすることが多くあったと思っているのだが、いつの間にか、変わらず手元に居続けるこんな身近な存在を拠り所にしていたのかもしれない。さしも知らじな、といった感じだ。

 ある意味、これを捨てることは辛いことが多かったこの15年の記憶と決別することにもなるかもしれない。それをためらったのは、自分にとってはその行為が、弱々しくも生きてきた自分の人生の蓄積が一部離れてしまうことへの心細さだったのだろうか。
 自分で書いていてもやはり大げさすぎる気がするのだけれど。

 修復し終わったマグは、やはり不格好だ。人が見ればすぐに「新しいの買えば?」と言われてしまうようなものだと思う。下手物も下手物だ。
 
 けれど、これは一種のナルシシズムなのかもしれないが、いびつでひびだらけで不格好な方がより自分自身に似つかわしいような気もしている。

 こういう情けない自分と折り合いをつけられるようになったときが、あるいはこいつの手放しどきなのかもしれない。それまではしばらく手元にいてもらおうと思う。
 しばらくぶりに中に水を注いでみた。漏れてくることはなかった。

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