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誕生日にお気に入りのマグを割った話(上)

 9月中、自分の誕生日に長年愛用していたマグカップを割ってしまった。そのとき感じたことや修復のことを至極大ごとのように書いてみる。

 誕生日とはいえ、もう何も特別なことはないのが当たり前になってしまっている。今年も家で静かに過ごしていたのだが、ふとコーヒーを飲み終えたマグをキッチンに持っていこうとしたときに、うまく掴むことができずに落としてしまった。あっと思ったときには破片になってしまった。

 改めて数えてみると、15年以上使っていた。
 私にとっては人生の半分以上の期間になる。
 一瞬茫然として、我に返って急に落胆と自責が込み上げてきた。
 15年間も使ってきて、床に落とすことなど一度もなかったのに。

 「そこにある」のが当たり前だったものの喪失は、思った以上に動揺を誘うものらしい。何しろ、「なくなること」を考えもしないものだから。まあ、食器なんてものは割れてしまえば買いかえればいいのだから、これもひどく大げさな考え方ではある。私の愛用していたそれも、何の変哲もないお土産品だ。

 ただ、私はそのとき瞬間的にかなり落胆していた。自分の落ち込み具合に少し驚いてもいた。「なんで誕生日に限ってこんな」という思いも湧き上がってきて、特に成人以降「どうでもいい」と思ってきた誕生日という日を、やはり特別視しているらしい自分も自覚することになった。

 思い返せば15年間、中学に入ったころから使い続けてきた。
 貧乏性で物持ちがいい方の私でも、これほど長く持っているのはこれも愛用のシャーペン1本程度だ。

 学生時代、高校受験も大学受験も、就活も、ずっとそばに置いていた。
 就職して一人暮らしを始めたときも、身内の介護のために実家に出戻ったときも、介護離職をしてからも。そして再就職して、今までも。

 人付き合いが苦手で、しかも必ずしも家が安息の場所ではなかった自分にとっては、変わらず手元にいてくれる存在が一種安心毛布のような存在であったのかもしれない。家族や友人以上の愛着を知らずに持っていたのだろうか。それを知るのが喪失したときというのは皮肉で辛いことである。

 しばらく頭を抱えんばかりに悲嘆していたが、やがて気を取り直して破片を拾い、掃除をした。せめてもと、大きな破片を並べて写真を撮った。

 そうだ、明日は燃えないごみの回収日だった、長く置いておくよりはすぐに捨ててしまった方が未練も募らずに済む。そんなことを考えながら破片を丁寧に包んだ。

 一度決めてしまったものの、数時間後には翻意していた。
 やっぱり、自分にはまだ捨てられない。

 自分のこの15年間の思い出が、その安いマグにしみ込んでいるような気がした。人に言えず押し殺していた感情や気持ちまで、自分そのものといえるものが。それを手放す気には、すぐにはなれなかった。

 私はばらばらになったそれを、修復することに決めた。

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