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MY LIFE STORY −私と古事記の物語③−

”MY LIFE STORY” -古事記編その③-
昨日までのつづきです。

短くまとめるつもりが、なかなか長くなってきてしまった。
前回、肥料ばかりやり続けては花が咲かないと嘆いていた私が本来手をかけるべきところである「根っこ」という自分のアイデンティティの存在を知った−−−というお話だった。

私は6年前から【古事記の学び合い】という月一勉強会を開催している。
古事記研究家の加藤昌樹さん(以下マッキーさん)を先生にお招きし、人生を古事記に照らし合わせながら我々日本人の先人がどのように生き、後世に伝えたかったこととは何なのか、を学ばせてもらっている。

そして、前回触れた台湾人のジョーさんの講演会。この主催者がマッキーさんだったのだ。
古事記の学び合いをされている、と聞き直ぐに「私にも主催させてほしい!」と講座の依頼をした。自分の身分を気にせず、興味があると一目散に向かっていく私の性格が功を奏した流れで、マッキーさんは二つ返事で引き受けてくださった。

古事記って何だかめんどくさそう。難しそう。そんなイメージがおありかと思う。実際、私もそう思っていた。

しかし一旦その印象を忘れてイメージして欲しい。
12万年前もの古代にも、現代の私達と同じようなことに悩みながらも生きていた人々の物語が書いてあるのが古事記。とても人間味あふれ身近なのだ。

「子育て」
「教育」
「人材教育」
「モノゴトの仕組み」
「男女関係」
「セクシュアリティ」
「お金のこと」
「死生観」

きりがないくらい、古事記には全てに通ずることが書き記されている。しつこくもう一度言いうが、書かれている内容は12万年前からのこと。
日本は古来から識字率が高かったのは、古典文学の存在からもわかるが、「残す」という想い。それは未来の誰か(自分も含め)に伝えたいときだ。

私は、先人が書き残そうとし、実際に残したくれたその気持ちを慮ると、命を無駄にはできないと胸が熱くなるし、もっともっと後世まだえ伝えたいと震えるくらいだ。

と、何だか宗教的になった感があるが笑、私は夫の信仰であるキリスト教の聖書も時々読むしコーランの教えを読むこともある。これも色々面白いことに気づけるのだ。


この背景は、また次回。

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