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病院のベッドで亡き祖父を想う

人生で初めて、緊急入院をした。
今も、病院のベッドの上だ。

幸いにも命に関わる病気ではなく、退院の目処も立った。
けれど、病院で過ごす日々は意外としんどい。

上げ膳据え膳でありがたや!と思ったのは最初の1日くらい。日に3回の点滴と検温・血圧測定のほかはやることがない。眠ったり、スマホをいじったり、本を読んだりして(生憎テレビを見る習慣は持ち合わせていない)、長い1日を消化している。

うつ病のどん底で動けないときもつらかったが、(外科的要因での)入院のつらさは別物だ。
頭も心もクリアで元気な状態で動けない。
前は体に心がついていかない感じだったが、今は動きたいという心に体がついていかない。

することがなくなった私の頭は、様々なことを考える。
なかでもよく考えたのは、私が22歳になる直前に亡くなった祖父のことだ。


祖父は人生の最後の5年半を、病院のベッドの上で過ごした。
ある日突然、不幸な事故によって、首から下が思うように動かせなくなってしまったのである。

祖父は近所の人からも「本当によく働く人だ」と言われていた。
春から秋は祖母とともに農業をし、農閑期には祖母とともに旅行に行っていた。
私たち孫が顔を見せると、「おう!」と腹に響くような太い声とニカッとした笑顔で迎えてくれる。
人と話し、人をもてなすのが大好きな人だった。

そんな祖父が、体の自由を奪われてしまった。
動かせるのは首から上と、利き手ではない左手を少しだけ。
突如として子供の頃から住み慣れた家を離れ、病院で介護を受けながら生活しなければならなくなった。

私たち家族は憤り、悲しんだ。
しかし、祖父は、少なくとも私の前では一度たりとも弱音や文句を言わなかった。


点滴に繋がれ、ベッドに仰向けになった私は考える。
祖父は何度、こんなふうに天井を見上げたのだろう。

仰向けに疲れた私は、寝返りをうって横を向く。
この動作さえ、祖父は自力でできなかったのだ。

長い長いこの時間を、死ぬまで終わらないこの時間を、祖父はどうやって消化したのだろう。


私たちは日曜になると祖父の面会に行った。
祖父の喜んだ顔が見られるのは嬉しかった反面、思春期の私には気恥ずかしくもあった。

元々、祖父との会話にどこか苦手意識を持っていた私は、だんだんと病院から足が遠のいた。
毎週していた面会は2週間に一度、1ヶ月に一度と減っていった。
そして、祖父が入院してから2年と少し後、私は県外の大学へ進学してしまった。
祖父に会うのは盆と正月だけになった。


病院のベッドの上、私は取り残されたような気持ちになる。
両親は毎日交代で来てくれるが、時間の都合もあり、顔を見られずに荷物を届けてくれるだけの日もある。

祖父は、孫が来るのをどれほど心待ちにしていたのだろう。
そのことに、今更になって気づく私が腹立たしい。

面倒でも、疲れていても行けばよかった。
祖父の寂しさに比べたら、私の疲れなんてちっぽけなものだったのに。


祖父は強い人だった。
体が動かなくてもネガティブなことを言わず、いつもニコニコ朗らかだった。
転院するどの病院でもスタッフさんに好かれていた。

電動車椅子に乗せてもらうと、左手でレバーを操作して、小走りじゃないと追いつけない速さでどんどん進んでいく。
機械操作の好きだった祖父は、慌てて追いかける私たちの反応を小さな子供のように楽しんでいた。


あの日々、祖父は何を楽しみに、何に希望を見出して生きていたのだろう。
リハビリに勤しみ、病院の行事を楽しむその姿から、生きることに絶望していたとは思えなかった。むしろ、できる範囲で生を謳歌しているようにも見えた。

あるいは、誰にも知られずに泣いた夜もあったのかもしれない。

祖父は強い人だった。
祖父が生き抜いた5年半の時を思うと、私の悩みや苦しみはずっと小さいものに思える。

点滴に繋がれ、患部は痛いけれど、私の体は自由に動く。
ならきっと、私はまだまだやれる。

沈みそうな気持ちを奮い立たせながら、私は一滴一滴と落ちる点滴を眺めていた。

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