【小説】Worker’ズ THEATER。
第二話 「再会」
気が付けば、 あれから一週間がたっていた。
幾多郁子が勤務する印刷会社の給料日を翌日にひかえたその日。
郁子のいる管理部は、 緊張感に包まれていた。
経理課の面々が、 時計をわざとらしくチラチラと見て
振込データを待つその内面をアピールしている。
だが、 肝心なそのデータの最終チェック者であるはずの
成島の処理が終わっていないのだ。
ここの管理部部長である成島は、 いつも締切ギリギリに
業務を行い回りにヤキモキされる人間だった。
従業員200名程の印刷会社。
小さい会社ではあるが、確かな技術と信用で歴史がある会社だ。
その管理部人事課で働く郁子は、 勤続15年を迎えるベテラン社員。
この張り詰めた空気に、 いつもならば誰よりもいち早く気が付き、
経理課長の香川に代わって、 管理部長の成島へそれとなく催促を
いれるのだが、 この時の郁子は違った。
「あの時…… 私は何であんなことを言ったのだろう…」
あの日以来、 郁子の頭の中であのことが何度もリピートしている。
そうなってしまうと郁子は 仕事中の手が止まり、
パソコン画面を見るでもなく、 ただただ ぼんやりとしてしまう。
この時の郁子もまさにそうだったのだ。
「幾田君! 幾田君!!」
成島の郁子を呼ぶ声がキツクなっても、 それに気付かない郁子。
隣の席のパート社員 原恵美が見かねて郁子の脇腹をつつく。
恵美は妊娠を期に一旦会社を退職し仕事から離れていたが、
上の子が中学校に入ると再びパートとしてリピート入社し、
郁子の隣の席で仕事をしている。
「…子、 郁子! 部長が呼んでる」
ハッとした郁子が、 小走りに成島のもとへ急ぐと
成島のデスクへ着くかつかぬかのタイミングで
成島が得意げに話し出す。
「ここさぁ、 計算違ってない? 間違っているよねぇ、 ココの人」
成島が指さしたところのには郁子自身の名前があった。
「自分の給料でしょ、 いいのこれで?」
にやにや笑いながらではあったが、
その言い方は鬼の首でもとったかのようないいようだ。
郁子の給料は遅刻分の減額がわずかだがある。
どうやらそのことを成島は‘誤り’だと言っているらしい。
成島が誤りだと思うのも仕方がない。
勤続17年になろうとしている郁子の遅刻は、
いつなぜ遅刻したかと全部説明できる数しかないほど
貴重なものだからだ。
— 郁子の脳裏に再びあの男の顔が浮かぶ。
「幾田君?」
さすがに痺れをきたしたのか、 成島の声に怒りが嫌味より怒りがこもる。
「あ、それ先週の月曜日ので…」
そこまで郁子が言いかけると、
成島は思い出したのかバツが悪そうにつぶやいた。
「ああ、朝の《珈琲》がなかった日ね」
野良犬でも追い払うようなしぐさで、 成島は郁子を席へ追いやった。
その日の昼休み。
人の多い社員食堂には行かず、 女子更衣室にある二畳ほどの小上がりで
足を延ばし お昼を食べるのが郁子と恵美の日常だ。
古株の女子社員二人が占領しているとあっては、
昼休みも終わりまじかにならないとここへは誰も来ない。
「何が、 朝の珈琲がなかった日よ! なんなの あの言いぐさ」
恵子はお手製の弁当を食べながら、 いたくご立腹だ。
「大体が『珈琲がなかった日』っていうの、おかしくない?
なければ、自分で入れるか コンビニに行くなりしろっての!」
恵美は元より郁子と年齢も近く、元々同じ時期の中途入社だったこともあり、
郁子とは気心がしれている。
そのせいか、 郁子に起こったことを恵美はいつも
自分のことのように怒ったり、 泣いたり、 笑ったりしてくれる。
郁子もしかり、 恵美は郁子にとって同僚以上の存在だ。
「ああ、もう! 毎度ながらあの言い方!! マジ、 腹立つわぁ」
「あの日、 珈琲入れ忘れたのは事実だし…」
そう言った郁子を戒めるかのように、 恵美が郁子の顔を
のぞき込む。
「それ、 本心で言ってる?」
こういう時、 恵美は痛いところをつくなと郁子は思った。
というのも、 成島が言う『なかった珈琲』とは、
就業時間より30分は早く来る郁子が毎朝入れているものだ。
入社したころから、 郁子は会社に少し早く来て、
静かに珈琲を入れる時間が好きだった。
ちょっと前まではコンビニ珈琲などもなかったし、
この会社の周りには珈琲ショップなどもないため、
珈琲で仕事スイッチを入れる自分のために始めた朝のドリップ珈琲だ。
が、 自分だけ飲んでいるのも気が引けるし、 一杯も人数分入れるのも
手間としては変わらないので、 保温ポットに入る分だけ入れていたら、
気が付けば、 管理部では保温ポットに毎朝珈琲があるのが
いつしか当たり前になっていた。
しかし、毎朝珈琲をいれるのは郁子ただ一人と言っても言い過ぎではない。
珈琲豆は、 毎朝郁子だけが珈琲を入れていることに気が付いた
社長からの差し入れであるし、
その社長が豆をちょうどいいタイミングで差し入れてくれるおかげで、
この朝珈琲習慣は続いている。
経理の人見さん曰く、 しっかり珈琲の経費精算は
社長からされているということなので、
郁子の仕事のひとつと言われれば納得せざるを得ない。
しかし、 滅多にないものの有給休暇を取るときなど、
前もって同僚の誰かにその代わりをひたすら頼まなければならないことが、
実を言えば郁子はモヤッとしていた。
恵美にはその心の内を言えばいいのだが、 付き合いが長いからか
『だったらこの習慣、 止めちゃえばいいのに!』
と言われるのが分かっているだけにそれを言えずにいる。
それに郁子が代わりを頼むのが大概は恵美なので、
自分がやり始めたことに恵美を勝手に巻き込んでいる申し訳なさも
心のどこかにあり、 これに関して恵美に愚痴を言えない。
あの日は、 恵美も有給休暇で不在。
郁子の遅刻は体調不良で途中下車したと成島には説明し、 事なきを得た。
でも、 朝の珈琲は郁子が入れ忘れたまま一日が終わり、
結果あの日は『朝の珈琲がなかった』。
次の日に「おはよう」をいうより先に「今日は珈琲ある?」と
成島に言われるまで、 郁子はそれすら気づいていなかった。
それからずっと、 気を抜けばあの男が郁子の思考を支配してしまう。
「で…体調は? もういいの?」
「え?」
また、 あの男に頭の中を占領されていたらしい。
恵美が郁子を心配するように、 顔を覗き込む。
恵美にならあの日のことを言ってもいいかもしれない。
「実は…」
と郁子が言いかけたところで館内放送が入る。
「人事部幾田さん、 警備室森岡まで」
「あ!」
郁子はその声で思い出した。
今日は定年が近い森岡の代わりとしてやってくる新人警備員が
初来社する日だった。
新人を紹介するから、 お昼休み前に警備室へ来るよう森岡に言われていたのを郁子はすっかり忘れていた。
「もうホントにどうした?」
全てを察したのか、 恵美がほとんど手つかずの郁子の弁当箱を引き受け、
郁子を送り出す。
と、 同時に―
「恋でもしたか?」
背中に投げかけられたいたずらな恵美の笑顔を
郁子は振り返って跳ね返す。
「あるわけないでしょ!」
恵美の高らかな笑い声を更衣室に閉じ込め、 郁子は足早に警備室へ向かう。
郁子が警備室の扉の前に立つか、 立たないかのタイミングで扉が開く。
恵美が更衣室から森岡に内線でもしたのだろう、
郁子がここに来るまでの間に再び呼び出しがかかることはなかったのが
それを証明している。
郁子を出迎えるタイミングを計った 警備の森岡が扉を開けたのだ。
「よお! 恋する乙女」
「!!」
郁子は目を見張る。
愛嬌のあるしわくちゃな笑顔で出迎えた森岡のその言葉にではない。
森岡の向こうで郁子に笑顔を投げかけるその男の顔に見覚えがあったのだ。
あの男―。
あの日、 郁子が追いかけ
『弟子にしてくれ』と頼んだ男が
そこにいた!
~第三話につづく~