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【小説】Worker’ズ THEATER。

第一話 「幕開け」

郁子がその男に会ったのは、夏だった。
まだこの世界にCOVID-19(コヴィッドナインティーン)と呼ばれる
ウィルスが蔓延する以前の8月のある日。
いつも通りの日常の中に、 その出会いが突然にやってきた。

四十半ばも過ぎた一人暮らしの幾田郁子の平日は、
規則正しいというよりは 日々同じといった方が正しいのかもしれない。
毎朝5時半と起床時間は同じだが、
そのあとは特に意識しているわけではないのに、
朝起きてから身支度を整え、 自宅を出て最寄り駅まで歩くと、
なぜかいつも同じ発車時刻の通勤電車に乗ることになる。

 その日もいつも通りの始まりで、 いつも通りの通勤電車に乗り込む。
乗る車両だけは、 後ろから三番目の車両かつ車両の先頭あたりと
なんとなくだが、 郁子は決めてはいた。
この日、いつもと違うことと言えば 学生たちがまだ夏休み期間。
しかも土日含めたお盆休み直後の月曜とあって、
通勤電車内に幾分かの余裕があることぐらいだろう。
駅まで歩く間に汗びっしょりになった郁子は、
車内のクーラーの恩恵にあずかる。
でもそれは、 次の駅から車両に乗り込んでくる人たちの
運ぶ熱気によってすぐにかき消さた。
通勤電車が都心へすすんでいけばいくほど、
多少の余裕があると思われた車内もすぐに人、人、人でいっぱいだ。
気が付けば、車内は誰かが誰かの迷惑になるほどに混雑をしていた。
乗り込んでくる人波に押された中年男性の手提げの荷物が、
郁子の顔のそばにくる。
電車の揺れで倒れないよう、 郁子のそばのつり革を
とっさにつかんだらしい。
同僚へのお土産だろうか、郁子もいただいた事がある
何種類かの沖縄菓子のパッケージが目の前に来る。
つり革より少し背の低い郁子は、 荷物が顔にぶつからないように
体勢を変えた。
—すると一人の男が郁子の目に留まる。

 遠目にも高級な生地だとわかるスーツを身にまとったその男は、
満員電車にはとうてい似つかわしくないオーラを身にまとっていた。
オーラというと郁子が霊能力者のようだが、決してそうではない。
その時の郁子には その男だけがなぜか、
日常の風景の中で異質にそう見えたのだ。
男の目の前に立つ若い男の背負うリュックサックへその手が
今まさに入ろうとしていた。
その男の手には、 その行為とは裏腹に
きらびやかな高級時計がはめられている。
リュックの若い男は、 睡魔と戦っているのか気づく気配もない。
「スリだ!」
郁子は瞬間的にそう思った。
でも、 なぜか声にはならなかった。
そしてその瞬間、郁子はその男と目があった。
確かにあった。
あったはずなのに、その男は悪びれるでもなく、
郁子に向かって余裕の微笑みを投げかけ、
そのままリュックに手を入れていく、
郁子意外にそれに気づいているものは誰もいないようだ。
『だ、 誰かに知らせないと!』
そうは思っても郁子は声も出せず、
かといって目をそらし、 見て見ぬ振りもできずにいた。
その間、 男はまるで郁子をマジックショーの観客であるかのように
一連の作業を郁子に見せつけていった。
リュックの中から何やらカードを取り出し、またそのカードをいれなおす。
『えっ…何??』
何事もなかったかのように、 音もたてずにリュックを閉める男。
当然ながら、 リュックの持ち主も気づく気配すらない。
『いったいあの男は何をしたの? 出して、 また入れた? ん?』
郁子の頭の中が、 目の前で見た光景とちっぽけな自身の道徳心とで
頭の中でせめぎあい、 ぐるぐると考えている間に次の駅に電車が止まる。
するとその男は人波をすり抜け、 ひとり悠々と電車を降りていった。
ターミナル駅でもないその駅では、 通勤時間帯に乗り込む人はいても
降りるものはほとんどいない。
気が付けば郁子は押し寄せる人波を逆流し、
その男を追って満員電車を降りていた。

 十年以上利用している沿線の駅なのに、
郁子がその駅のホームに立つのは初めてだ。
次の列車を目指す人がホームに現れ始めているが、
利用客が少ないその駅のホームで郁子はすれ違う人にいちいちぶつかった。
郁子の目には、 その男しか見えていないかのようだ。
一方で、 郁子の視線の先で先を行く男は歩くスピードを増していく。
必死に追いかけた郁子がその男の手をつかめたのは、
男が改札口を目前にしたときだった。
「弟子にしてください!!」
そう言った自分の声に誰よりも郁子自身が一番戸惑い、 驚いた。
そして、振り返ったその男は
特に逃げる様子も悪びれるそぶりも見せずに、
ただ郁子を優しく見つめ返した。

~第二話に続く~