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安心できる世の中に…

3.11
東日本大震災から13年。
いまだに避難生活を余儀なくされていたり、
大切な人や場所を失った方々に
心よりお見舞い申し上げます。

その日、
私は職場にいた。
確定申告が大詰め。
提出期限の15日に間に合わせるため、
申告書のチェックをしていた。
(当時、税理士事務所に勤務)

14時46分、激しい揺れが起きた。
コピー機とパソコンがガタガタと音を立て、
長い間揺れていた。
少し揺れが収まってから、全員外へ出た。
雪がちらつく駐車場では、
車も激しく揺れていた。
かろうじて立ってはいたが、
足がガクガクして
自分が揺れているような感覚だった。
仕事は中断、
帰宅することになった。

当時、娘は特別支援学校の小学部3年。
下校時間は過ぎていたので、
学校から3分ほどの
放課後等デイサービス(放デイ)に
移動している時間だった。
が、学校からも放デイからも連絡がない。

とりあえず、自宅へ戻る。
電線が波を打つように揺れている。
街は停電しているようで、
信号が付いてなかった。

自宅に帰ると、
リビングに置いてある金魚の水槽から
水が溢れ、床はびしょびしょ。
水槽の水が半分になっていた。
停電もしていてた。

夕方になり、ママ友からのLINEで
「子どもたちは、職員さんと一緒で
公園に避難しているから、迎えに行くように」
というお知らせが来た。
早速迎えに行くと、施設のマイクロバスの中で
生徒が家族の迎えを待っていた。
学校はそのまま春休みに入った。
卒業式はできたんだろうか…?

夕方、市内のお店は早々と閉店し、
懐中電灯の電池を買いに行ったが
すでに売り切れていた。

停電は12日のお昼ごろまで。
翌日のテレビで大地震の様子を知る。
目を覆いたくなる光景だった。

寒くてつらい状況の被災地に比べたら、
こちらの丸1日にも満たない停電や
ガソリンを入れるために並んだことも、
スーパーのあらゆる食品がなくなったことも、
金魚の水槽の水が溢れたことも、
小さな出来事に過ぎない。

被災地の障害児と親御さんは
どう過ごしていたのだろう?
避難所へ行けたのだろうか?
避難することを躊躇しなかっただろうか?
余震も昼夜をとわず連日、停電、断水。
いつもの日常と違う場所、
ざわざわした空間で
パニックになった子供たちも
いただろう。

当時、東日本大震災のような大きな災害が
また起きたら、
障害児たちの避難場所はどうなるのか?
という問題は持ち上がったが、
今は災害時のことは騒がれてはいない。

娘は、
大勢の人と一緒になる
地域の学校や公民館などで過ごすことは
無理だ。
『支援学校の体育館にみんなで集まればいいよね~』
と、ママ友と話したこともあった。
でも、支援学校が避難所として開放されたとしても
卒業生まで押しかけたら、パンクする。
起きてからでは遅い。

今年の元旦には、
能登地方で震災が。
私は災害が起こるたびに被災地の
障害児と親御さんのことを
思わずにいられない。
災害時は支援者も被災しているのだ。

尊敬している先輩ママは、
警察学校で毎年、知的障害者・自閉症・強度行動障害の特徴を
伝える講義をしている。
障害児、障害者が安心して暮らせる
世の中になって欲しい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。






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