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スペインバルで食べるはずだったカタラーナを私が食べ逃した理由

「食後のデザートに特製カタラーナ食べようよ」

目黒の半地下にある隠れ家風スペインバルで、ホワイトニングを繰り返しすぎてもはや発光している歯を覗かせながら彼はそう言った。クレームブリュレに似たスペイン名物であるカタラーナを楽しみにしながら、私はご機嫌で食事を選ぶ。

店のウリは、オーダー後にお米を炊いて作るアツアツのパエリア。提供するのに45分ほどかかるため、前菜やタパスと併せてすぐにオーダーした。

「私、こんなに本格的なパエリア初めてです!」

「でもそれだけ待たせて不味かったら、ちょっと微妙じゃない?」

初対面でこういう発言をする年上の男性と、このあと45分も一緒にいることこそが微妙すぎやしないか。このとき私はパエリアの到着よりも先に、私の忍耐力が切れるのではないかと不安の念を抱いた。

お酒を飲まないという彼は本来なら食後に提供されるであろう氷の入った水をゴクゴクと飲みながら、案の定すべてがネガティブに進む話ばかりを繰り広げる。それを右から左へと聞き流していると、いよいよメインのパエリアが登場した。魚介の香ばしい香りがテーブルを包む。

パエリアを口に運び、おいしいと言いかけた私の言葉を遮り、彼の口から飛び出したのはスペイン人もびっくりのイキリ発言だった。

「このパエリア、俺の知ってるパエリアじゃないわ〜」

あなたが知っているパエリアとは一体何なのか、一度それを説明したうえでスペインで修行を積んでから出直してほしい。

「私はすごくおいしいと思いますよ」

思わず語気を強める。

「倍の値段払ってるのに、これじゃファミレスと一緒だよ」

このスペインバルにもそのファミレスにも謝ってほしい。それぞれの企業努力をなめるな。せっかくのおいしい料理が台無しとはまさにこのことである。

彼は文句を言いながらもしっかりとパエリアを完食し、私はデザートで気分を落ち着かせようとメニューに手を伸ばす。すると彼が顔を上げて勢いよく言った。

「お会計で!」

カタラーナはどうした?
メニューに手をかけながら固まる私。

「ジェーンちゃんは、4,430円ね」

スマホの電卓を使ってきっかりと割り勘した金額を得意げに伝えてくる彼。私は財布から5,000円札を取り出し彼に渡した。ちなみに私のもとにお釣りが返ってこなかったという事実は、彼のメンツを守るために秘密にしておく。

外に出る階段を登りながら、彼はまだ後ろでパエリアの悪口を言っている。早足で駅に向かおうとすると、彼が私の肩を力強く抱いた。

「このあと、一緒にどう?」

どう? と言って立てた親指は、おそらく近くのホテル街を指している。このときすべてが繋がった。彼は入店してからずっと、このことで頭が一杯だったのだろう。

わたしが甘いカタラーナへの期待に胸を膨らませていたとき、彼は甘い妄想に下半身を膨らませていたのだ。カタラーナなどそもそも彼にとってはどうでもよく、一刻も早く店を出たかったのではないだろうか。

「ごめんなさい、今日は帰ります」

肩を抱く腕からするりと抜け出し、大股で改札に向かう私。後ろから彼が追いかけてくる気配を感じる。驚いたことに彼は電車にまで乗り込んで来たため、危険を感じた私は最後の切り札として父親を登場させることにした。

この類の男性は皆、”コンドームを使うセックス”と”口説いた女性の父親”を嫌うというのは古くからの教えであろう。

スマホを開いて父親から連絡が来ているフリをしながら、彼の顔色を伺う。ゴネにゴネにゴネまくる彼をなんとか次の駅で電車から降ろした。

「どうするんだよ、俺ここまで来ちゃったじゃん!」

ドアが閉まる瞬間、彼の自業自得すぎる捨て台詞がホームに響いた。私は素知らぬ顔でつり革を握りしめたが、正直どんな小さな穴でもいいから穴があるなら入りたかった。

家に帰ってスマホを見ると、親友から週末の食事の誘いが来ていた。行きたい店はあるかと聞かれてすぐさま答える。

「おいしいスペインバル見つけたから、一緒に行かない?」

おいしい料理は大好きな人と食べるのが一番であると、改めて実感した。週末のカタラーナを楽しみに、明日の仕事も乗り切ろう。

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