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過ちの代償 其の八


節子

二人は神社を出て近くの喫茶店を探すことにした。駅に戻る方向に暫く歩くと丁度いい具合の店が見つかった。そのまま店に入り腰を落ち着ける。
博は節子の話に興味深そうに聞き入った。相槌を打ってはメモにペンを走らせている。
話しながら節子は村での暮らしを思い出していた。
勇があんな事にならなければ、今でもあの村に居ただろうか。あのままあの村に暮らすのと、今の生活とどちらの方がマシだっただろう。
考えても仕方のない事だ。
一頻り話し終えると、今度は節子が博の話を聞いた。東京から取材旅行に来たことや、まだ駆け出しの新人作家であること。次の作品にかける意気込みを語る博の瞳は輝いて見えた。

──こんな風に未来に夢を見られる人が、羨ましい。

「では、今日は本当にありがとうございました。」
「こちらこそ、突然の事で驚いたでしょうに、お相手してくださってありがとうございました。」

本当はもう少し博と話したかったが、もう家に戻らねばならない。
連絡先を交換できたら……と思ったが、博が席を立ったのでつられて節子も席を立つ。
ともに駅まで歩いたあと、別れの挨拶を交わして節子は帰途についた。

また日常が始まると思うと、節子はたまらなく憂鬱になった。
仕事に行きたくない……。
しかし、そんな事は言っていられない。
鉛のように重い身体を起こして店に向う。
多い日は一日に十人近く相手をする事になる。売上げの半分以上が店の取り分になるため、生活費を稼ぐにはやらないわけにはいかなかった。
店先に座って客待ちをしながら、節子は昨日の出来事を思い出していた。
あんな風に人とおしゃべりしたのは何年ぶりだろう?否、もしかしたら人生で初めての事だったかもしれない。
物心ついた時から、節子の人生にはずっと暗い影が付き纏っていた。

ふと、店先に見覚えのある顔が通ったような気がした。まさかと思い二度見すると、確かに博だった。向こうも同様だったようで、驚きを隠せない顔をしている。
こんなところで会うとは予想だにせず、気まずさを覚えて目を伏せる。

「お仕事ですか……?」
「はい。そちらは、取材でしょうか……?」
「は、はい……。」
「よろしければ、ビールでも飲んでいかれます?」
「い、いいんですか?」
「どうぞ。……折角のご縁ですから。」

男性客との「自由恋愛」の上、双方合意でコトに至るというのが「料亭」の建前なのだ。
その日から博が東京に戻るまでの一週間、節子は毎日のように博と店で顔を合わせるようになった。博と会話をするのが楽しかった。
どうやら博はこういう場所に来るのは初めてのようだったので、節子が手解きをした。節子の方でも仕事が苦にならないと感じたのは初めてのことだった。
その上、博は節子に

「僕が売れたらきっとあなたを迎えに来ますから、待っていて下さい。」

などと真顔で言うのだ。
そうしてもらえるのならどんなに嬉しいだろう。ずっとこうしていられたらいいのに……。
一週間は瞬く間に過ぎ、最後の逢瀬となった。

「手紙を書きますね。」
「はい。私も書きます。」
「必ずまた来ます。」
「……待ってます。」
 
翌朝、節子は東京に戻る博を駅で見送った。
この一週間は、暗く希望のない日々にぱっと灯りが点ったようだった。
いつかきっとまた博に会える。
それだけを支えに、節子は日常に戻っていった。

節子は博に宛ててまめに手紙を書いた。
固定電話を持っているのはごく一部の層に限られたので、そうではない節子と博が遠く離れた相手とやり取りするには手紙に頼るしか無かった。
作家というだけあり、博の綴る手紙は豊富な語彙で彩られていた。それを読むと節子はいつも楽しい気分になった。
節子の方はというと、博の作品に役立ちそうな話があればそれを書き留めて、最後は決まって「また会いに来て下さい。お待ちしております。」で締めるのだった。
節子が手紙を送ればすぐに博からの返事が届き、また節子がそれに返信する。
そんな感じで、当初は一月に五、六通もやり取りする事さえあった。しかし時が経つにつれ、博からの返信が遅れるようになった。
なかなか届かない手紙を待つ日々はとても味気なかったが、忙しいのだから仕方がない、きっと仕事が上手く行っているんだわ。節子はそう思うことにしていた。



博が去ってから早一年が経とうとしていた。
そろそろ資金も溜まってきたし、このお金で上京して竹下さんに会いに行こうかしら。
そんなことをぼんやり考えながら、節子は店先で客待ちをしていた。
その時、向こうから聞き覚えのある声がした。

「おまん節子か?節子じゃねえか?」

勇だった。思いがけない再会に節子の心がざわついた。

つづく


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