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自由意志

そこにカフェがあることに気付いたのはつい先週の事だ。これまでにも何度か来たことがある場所のはずなのに、今の今までその小ぢんまりとした家屋がカフェであることに気付かなかった。
小窓から店の中を覗くと、壁面を覆うように書棚が並んでおり、壁には古びたレコードや写真がセンス良く飾られている。いわゆる隠れ家的な店と言ったところだろうか。
趣のある木の扉を押し開け足を踏み入れると、常連客と思しき客がマスターと何やら話し込んでいた。
店内にはジャズの音色が響く。
山辺はカウンターに腰を下ろすとメニューに目を通した。どうやら昼の間はカフェとしてこだわりの珈琲を提供し、夜には酒類も提供するバーになるようだ。ビールを注文し、鞄から本を取り出して読み耽る。
背後からドアベルの音がして、入口の扉が開くのが分かった。何気なく目をやると、若い女性が入ってくるのが見えた。年の頃は20代前半といった所だろうか。
女性は山辺の席からひとつ空けて右隣の席に腰を下ろし、慣れた様子でマスターに声をかけた。

「こんばんは。」
「あ、どうもこんばんは。仕事帰りですか。」
「ええ、今日もくたくたです。」

常連客なのだろう。
山辺は再び本に目を落とした。

「どうぞ。」

マスターが差し出すビールを受け取り、ちびりちびりと飲みながら、例の女性の方に目をやると、何やら真剣な面持ちで、A5サイズのノートにペンを走らせているのが見えた。

「新作?」

マスターに尋ねられ、

「はい、……ちょっと、新しいテイストに挑戦中です。」

そう答える彼女の声には微かな恥じらいの色が感じ取れる。
程よく酔いの回ってきたところで、山辺は女性に声を掛けた。

「何を書いているのかお聞きしても良いですか?」

 女性は少し驚いた様子でこちらに目を向けた。初対面にしては馴れ馴れし過ぎただろうか。

「趣味で、詩を書いております……。」
「素敵なご趣味ですね。」
「ありがとうございます。でも本当に素人ですから、人にお見せできるようなものでは無いんですけど……。」

そう言うと、照れ隠しのようにカクテルグラスに口をつける。

「読ませていただけますか?」
「ちょっと……というより、かなり!恥ずかしいかも……!」

これ以上無理強いするのは心苦しい。

「そうですか。どうも失礼しました。突然馴れ馴れしく話しかけてすみません。」

沈黙を和らげるようにジャズの音が響く。
暫くすると、今度は彼女のほうが山辺に話しかけた。

「萩原朔太郎ってご存知ですか?」
「名前は知っているけど、読んだことは無いなぁ。詩人だよね?」
「はい。その人の詩の世界観が好き……というか、気になって、書いてみました。」

そう言うとおずおずとノートを差し出した。
目を落とすと、そこには女性らしい綺麗な文字で、何処となく艶めかしさを覚える言葉が綴られていた。

なおう るるおう なおるおう

不思議なオノマトペから始まる、これは散文詩というのだろうか。タイトルには「青猫返歌」と附されている。

「青猫返歌?」
「はい。朔太郎の『青猫』っていう詩集があって、そこから取りました。」

詩音が答えた。

「『青猫』店にあるんじゃないかなぁ。」

そう言ってマスターが書棚を探し始めた。

「あったあった。どうぞ。」
「どうも。」

マスターから古びた文庫本を受け取ると、山辺はおもむろにページを捲った。詩集というものをまともに読むのはこれが初めてかもしれない。読み進めながら、山辺は心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えていた。そこに収められた詩は一人の男の陰鬱と孤独、そして劣情に満ちていた。
ふと脳裏を白い影が過ぎる。
───以前妻であった人の面影が。

詩音は初対面の男性に詩を読ませた事を後悔しはじめていた。アルコールのせいで少し気が大きくなってしまったのかもしれない。
この程度の出来で「本当は詩人になりたかった」などと言えば嘲笑われるのではないか……。

───そんな夢を見ても食べていけないでしょ?お給料は低くてもいいから安定した職に就くのが一番よ。詩を書くのは趣味にして、働きながらデビューを目指すのでもいいじゃない。

母の声が聞こえる。
子供の頃から詩を読むのが好きだった。初めて読んだのは小学校の図書館で借りたまどみちおの詩集だった。とても単純な言葉を軽快なリズムで綴りながら、物事への深い洞察力を窺わせる詩の奥深さに魅了された。
 中学生になると自分でも幾つか詩を綴るようになった。国語の課題で提出した詩がコンクールで受賞したこともあった。
母親は詩音に進学校を受験させたがったが、人前で積極的に発言するのがあまり得意ではない詩音の内申点は、国語と音楽を除き、さほど秀でている訳でもなかったので、およそ半数の生徒が卒業後に就職する商業高校に進学した。
「歌詞が書けて歌も歌えるから」と、高校に入って初めてできた友人にバンドに誘われたものの、派手な事を嫌う母親が許してくれるはずもないと思い申し出を断った。
冬休みにアルバイトをしたことがあるという理由で、学校の推薦を受けて日本郵便に就職した。何事につけ新しい事に踏み出すのが苦手な詩音なので、勝手知ったる職場で働く方が安心できると思ったのだ。しかし、正社員の業務はアルバイトの時とは違い、保険の営業や窓口での接客応対が主だった。もともとあまり口が立つ方でもないため、営業の仕事は詩音にはかなりの負担になった。覚えなくてはならない事が山程あるし、ノルマが重くのしかかる。そんなこんなでこの二年間は必死に働いてきたものの、近頃では出社のたびに動悸がするようになってしまった。
そんな灰色の毎日の中で、やっと息をつけるのがこの店で珈琲を飲みながら詩を書く時間だった。以前までは仕事帰りに来店して珈琲を頼むだけだったが、昨日二十歳の誕生日を迎えた記念として、初めてアルコールを頼んでみた。モスコミュールは爽やかな炭酸飲料のようで思いの外飲みやすく、半分も飲むと気分が高揚しはじめた。だから、いつもより大胆な行動に出てしまったのだ。

 ※

「失礼ですが、お名前は……?」

そう女性に尋ねられ、山辺はまだ名乗っていない事を思い出した。

「山辺です。」

そう言って残りのビールを飲み干すと、マスターにおかわりを頼む。

「山辺さんですね 。わたしは斉木と申します。」
「さっき見せてもらった詩は、まさに『返歌』ですね。朔太郎の魂をよく汲み取っていると思いました。詩には疎いので、気の利いた褒め言葉が出なくて申し訳ない。」
「いいえ、そう言っていただけると嬉しいです。」
「斉木さんは本を出したりは?」
「まさか。そんな才能はありません。」
「何故ですか?新人賞にでも投稿してみればいいじゃない。」
「わたしにはとても無理です。昔は詩を書いて生きていけたらな、なんて夢を見たりもしましたけど……。」
「無理だと思うのは何故です?」

───デビューしてからが本番なのよ。才能で食べていける人なんてごく僅かしかいないんだから。

頭の中で母の声が響く。
言われるまでもなく分かっている。

「……とにかく、きっと無理です。」

そう言うと詩音はモスコミュールを飲み干した。

「そうですか。」

山辺はそう言うと、独り言のように呟いた。

「俺に言わせてみれば、そう《選択させられている》んじゃないかと思うけどね。」

───そう。自分の意志で選んだと思っている多くの事は、実のところ《選択させられている》のだ。

山辺が高校二年生の頃、父親が鬱病を患い職を失った。この時まで山辺は大学に進学することを至極当然のように考えていた。父の失職は青天の霹靂だったので、もしかしたら大学に進むことはできないのではないかという強い不安に苛まれるようになり、不眠に陥り勉強に集中することができなくなった。
幸い奨学金を借りて大学に進学することができたものの、目く指していた医学部に進むのを断念し、心理学専攻に進路を変更した。
大学で学ぶのは楽しかった。このままアカデミックな世界に身を置いて研究者を目指したいと思ったりもした。しかし奨学金を借りている身の上である。地方から上京し、安くはない家賃をアルバイト代から捻出しながら学問を修めるのも楽ではなかったため、山辺は堅実に臨床心理士の資格を取って働く道を選んだ。給料は決して高いとは言えないが、仕事にはやり甲斐を感じていた。
そんな折に学生時代から交際していた女性が妊娠した。父親になるのだから、と山辺は気を引き締めて働いた。娘の出産に立ち会った時には思わず涙を零した。これからの人生への希望に胸を躍らせていた。妻も産後すぐに復職して、家族三人で頑張っていく……つもりだった。幼い娘の世話に仕事に追われるうちに、いつの間にか少しずつ妻とのやり取りが噛み合わなくなっていった。互いにストレスを溜め、家事や育児の役割分担での諍いが増えていき、娘が四歳になった頃に家庭は破綻した。娘に会えるのは親権を持つ元妻が会わせてくれる僅かな時間だけだ。
この先、俺はいったい何に希望を持って生きればいいというのか。そんな思いが山辺の心を暗く蝕んだ。仕事も辞めざるを得なくなり、絶望の底を這い回った。漸く精神状態が落ち着いて来た頃、元妻との記憶の残る東京を離れ、地元に戻る事に決めたのだった。

「《選択させられている》?」

詩音には言葉の意味が今ひとつピンとこなかった。

「これは哲学的な命題になるんだけどね、《自由意志は存在するのか》。自由意志というのは、人間は何者からも影響を受けずに自発的に自分の行動を決定できる、という事だけど。」
「何にも影響を受けない事なんてあるのかしら?何かを選択したり行動を決定したりする時には、少なからず、それまでの経験なり周囲の人の声なりに影響を受けているような気がするわ…。」

母の声を思い出しながら詩音は呟いた。

「そういう考え方は決定論と言うんだ。ある出来事が起こるのは事前に起きた出来事によって決まっている…ある原因があってすべてはその結果である、という考え方ね。昔から哲学者たちは自由意志は存在する、いや決定論だ。いやいや、その両方だ。とあれこれ考えてきたんだ。」
「ふぅん。難しい事はよく分からないけれど、“この選択は本当に自分の意思なのか?”って突き詰めたくなるのは、何となく分かるな……。」
「最近の研究では、人間の意思決定にはもっと複雑な要素が様々に絡んでいるという事が分かってきた。例えばある事に対して我慢したり自己制御する事も脳の働きによって決まっているという事が分かってきたんだ。」
「そうなんですね……。人間の意思や判断は全て脳が司っているのだから、言われてみれば当たり前のような気もするわ。」

取り留めのない会話を続けながら、詩音は酔いが回っているのを感じた。呂律が怪しくなって身体に力が入らない。
ふと時計に目をやると、いつの間にか10時を過ぎていた。

「そろそろ帰らなきゃ……。」

そう言って立ち上がろうとする詩音の足元がふらつく。

「大丈夫かな。」

山辺が詩音の手を取り支える。

「大丈夫です、たぶん、ええ。」

どう見ても大丈夫そうには見えない。
山辺は詩音の分も併せて会計を済ませ、詩音を支えながら店を出た。
このまま帰す訳にもいかない。暫く夜風に吹かれながら酔いを醒ますか……。
喫茶店からそう遠くない場所にある公園のベンチに詩音を座らせ、自分も隣に腰を下ろす。
しどけなく山辺の肩にもたれかかる詩音のあどけない顔を眺めるうちに、さっき詩音に見せられた例の詩が頭の中に木霊した。

なおう るるおう なおるおう

こいびとよ
この魂の鳴き声が
あなたに届かぬのなら
わたしの濡れた鼻先を
あなたの頬に擦り寄せて
しなやかな髭先で
あなたの首筋を
くすぐりにゆきましょう

なおう るるおう なおるおう

そうして横たわるあなたの
胸の上に寝そべり
心臓の音を聞きましょう
とく とく とく とく
爪先で刻むリズムも
く 疾く 疾く 疾く

みっしりと繁る和毛にこげ
あなたの肌を包み
ぴんと伸びた尻尾の先が
あなたの脚を絡め取るとき
あなたの震えは鎮まり
おだやかな眠りに包まれましょう

───まずい。まずい。非常にまずい。

その時、詩音の細い指が山辺の手をそっと握り締めた。そのまま胸元に引き寄せてつぶやく。

「……一度くらいは、自由意志を信じてみたい。」

強い衝動が山辺を襲った。
このまま、この娘を犯してしまいたい。
しかし、理性を総動員して衝動を圧し殺す。

「……あなたは酔っている。」
「はい、酔っています。でも、酔っているからこそ出来る事ってあるんじゃないかしら。」

───落ち着け。

細く長い息を吐き出して、

「後悔させたくないんです。」

振り絞るような声で答えた。

「……ごめんなさい、莫迦な事を言ってしまって。」

そう言うと、詩音は山辺の肩に寄りかかり眠り込んでしまった。
昂る気持ちを抑えながら、山辺は拳を握り締めた。
これで良かった。これで良かったんだ。



詩音が目を覚ますと、雲間から薄明るい朝日が覗いていた。隣には山辺が眠っている。硬いベンチの上で無理な体勢で寝てしまったため、身体のあちこちが痛い。

───それにしても、わたしは何ということをしたんだろう。 

昨夜の記憶はしっかりと残っていた。山辺を誘ったのは確かに詩音の方だった。酔っていたとはいえ、普段の自分からは想像もつかない大胆な行動に、今更ながら戸惑いを覚えた。 

───でも、これはわたしが選んだ初めての逸脱だ。わたしはわたしの意志で選択をすることができる。

そう確信した詩音の表情は何時になく喜びに満ちていた。
程なく山辺が目を覚ました。

「あれ?……ここで眠ってしまったのか。」
「おはようございます。」
詩音が山辺に微笑みかける。
「昨夜はすみませんでした。」
「いや、こちらこそ……。」
「わたし、もう家に帰らなくちゃ!母になんて言われるか分からないわ。」

詩音は慌てたように身を起こし、その場から走り去ろうして、ふと立ち止まり振り返った。

「またお会いできますか?あのカフェで。」

山辺は満面の笑顔で答えた。

「喜んで。」

〜 fin 〜



※作者コメント
この小説のカフェにはモデルになっている実在のお店があります。
長野県松本市にある“想雲堂”というお店です。松本にお越しの際はぜひ立ち寄ってみてください。

酔った勢いで行動した詩音より全理性を振り絞って「何もしない」を選択した山辺のほうがよほど自由意志を行使したように思える。でも、それも山辺の脳の特性によって予め決定論的に決まっていたのだと言えるかもしれない。


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