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しょーもない人々。

SNSは便利で楽しいですが時折しょーもないですね。
って、のっけから何を書いているんだか…。

いわゆるSNSに依存という要素は私は持ち合わせていません。スマホ持っててもwi-fi環境下にいてもネットに繋げなきゃ、通知確認しなきゃ、ゲームしたい、などなどの欲求がありません。だから下手したら外ではスマホで1Gも使わないこともあります。(ていうか大抵1.5G以下。)

そのせいで大事な通知を見逃してしまいご迷惑をかけてしまうこともありますが、なんと言い訳したらいいんでしょう…こう、常にネットに縛られるのがしんどい時があるんですよね。通知100とか来てたら白目になります。自分が集中している時にSNSに縛られて気が散るのがいやなのです。なので何かに集中している際は敢えてミュートにしていることもあります、悪しからず。

YouTubeで配信してたやつが何を言い出すんだ、という感じですよねw
配信するということは、どなたかの時間をいただくという事ですから。まあ、配信は好きな人が観るものなので、別モノとして考えましょう。

例えばTwitter。気軽に呟いて共感を得たり、ストレスをプチ発散したり、有効に活用できている人はいいと思うんです。

私無理なんですよ。

というか波があって、たまに無性に距離を置きたくなるんです。月と地球くらいの距離を。

愚痴を書きたい時もあるけど(書くこともあるけど)、私は、ですよ?私は、人の愚痴ツイートを読んでも楽しく無いんですよね。
じゃあこのnoteの記事ははなから愚痴やんけ、というごもっともなご意見ありがとうございます。
今回は開き直って、ツイートではなく文章で盛大に愚痴らせていただこうと思います。


SNSは時折しょーもない、と文頭に書きましたが、SNS自体がしょーもないというよりも、投稿がしょーもない、おもんないという場合が多い。(辛辣)

自己表現は自由ですから、規制せよとまでは言いませんが、時折思う。しょーもない。

あの、炎上するような内容の投稿とかはしょーもないというレベルを遥かに超えて存在自体無視です。無視。そんなのにかまけている時間とエネルギーが勿体無い。

という訳で、一般的なSNS投稿がどうもくだらないことがある。

有益な情報や笑いや癒しなども沢山ありますし、全てがくだらないとは言わない。(何度も言うけど)
しかし何がって、人を批判する投稿ですよ。これが実にくだらない。

もう一度書くけど、自由ですよ、書くのは。
でも大概ねえ、響かない。

もし仮にそれが誰かの悪口なら、「直接その人に言えば?」と思うのです。

言えないけどモヤモヤする、だから呟く、晒すなどという行為は誠実ではないと思うなあ。

よく見るんですよ、「誰々にこう言われたムカつくー!」みたいなの。
それに共感したりシェアしたりしている人たちもきっと類友なんだろうなあ、と冷酷にスルーさせていただいています。

あと、ネットでよくあるのは…これは仕様上仕方ないのかも知れないけれど、【自己愛が強過ぎる】人や【承認欲求が強過ぎる】人が自分を棚上げにしてブツクサ言っているというやつね。

認められたいのはわかる。わかるよ。でもさ、ここで?
世の中には、誰にも認めてもらえないから、今の時代だからこそネットを活用しているのかも知れないしそれは自由だ。
しかしそれが私には滑稽に見えてならないのよ。


悪態をついている人に対し、私はこう思う。
「あなたは同じことを言われるようなことは身に覚えが無いのですかね。」

SNSだからこそ、ネガティブな言葉は生身の言葉よりも人を傷つける場合がある。受け取る側がノンバーバルな情報を得られないから。

それでも敢えて書く人よ。自分を棚上げして他人の悪評を書く癖がついていたら、いつの日かブーメラン返ってくるよ。

他人の悪評に乗っかって[自分がターゲットにならないように]自分も悪口叩いて(私はあなたの味方よ)アピールも必要ないですね。そこまでして自分を護る価値あるんですかね、その対象者に。
私ならばですが、しょーもない事言う人には乗っかりません。
そもそも人に固執しない性分なので、そこで距離を置くとかどうとかは無いのですが、相手にはしない。よく言いますよね。バカと同じ土俵に立つなと。

わたくし事ですが、承認欲求の塊みたいな人とは極力深い付き合いをしたくない。何故なら、<元>親が(絶縁しています)自己愛性人格障害だったんじゃないかなと思うくらい極端なくらい承認欲求が強過ぎて、いつも悲劇のヒロイン、賞賛されて当然、賞賛しない人をこき下ろすというサイクルが出来上がっていてそれに日常的に巻き込まれていた幼少期・思春期は窮屈極まりない(迷惑極まりない)ものでした。
そんな元親も被虐待者だったらしいのでそういう影響もあるのかも知れませんが、巻き込まれる方からしたら知ったこっちゃないですよね。

私もなかなかハードボイルドな人生送ってますけど、

「私の気持ち、わかって欲しいねん…」

という発想はほぼ無い。というか、どうせわからんやろ、くらいに思っています。
どうでも良い話を書きますが、長年付き添ってくれた(今は泣く泣く離れてしまった)臨床心理士の公認心理士であるカウンセラーさんが、


「Janeさんを理解するというのは、難しい事です。」


という謎の査定をしておられました。
また、今現在お世話になっている発達障害支援センター(私はADHDです)の相談員さんからも、


「Janeさんからは、人にはどうせわかってもらえないという気持ちが伝わってきます」


と率直に言われました。
そうなんですよ。期待していないのです。

人間、自分のこともろくに理解できないのに、他者理解がいくら大切でも難しいんですよ。
それでも理解しようというのが福祉に繋がるのだと思うけど、それは主体的・本質的な理解であって、強制力はないものと思われます。

人に理解されたい。されて当然。だって私は・僕は、それに見合った価値があるから。


という人が多いのですが、きっとその欲求は望む程には満たされないことの方が多いんじゃないかなと思っています。

見返りを求めて行動を起こすと、肩透かしに遭って病むかも知れません。
誰かのために行動を起こして、それを遂行して実りに繋がったのならばそれで良いではありませんか。


褒められるんじゃない。


遂行できたのは、本当に自分1人の力だけで実現したのか。
よーく考えると、感謝すべき人が出てくる筈です。

自分を愛するのもとても大事だけど、理解者・支援者への感謝もとても大事だと思います。
それこそ言葉にして相手に伝えないと伝わらない。

実際に知っている人だけど、確かに成功していて大金持ちのおっさん、口から出るのは自分より目下の者への侮辱、逆境を乗り越えて成功した自己の栄光にしがみつき「すごいですね」という言葉を待機している感ひしひしなおっさん。悪いけど一度も憧れんかったわ。だから嘘も嫌いなので「すごいですね」とは言わなかったわ。


こんな私だもの、世渡り上手じゃないかも知れない。
別に良いのです。自己流で渡っているので。誰も見ていないところでグッと努力して、我慢もして、綺麗事は足蹴にして。

人から怪訝な目で見られようが、距離を置かれようが、フェードアウトされようが、構わん構わん。置いてかないでーと追いかけるほどの価値はその人には無いと思うから。


真面目でいたい訳じゃない。(真面目さのかけらもない)
でも、自分の子どもに見せる背中は惨めなものではあって欲しくない。

しょーもない人はごまんといる。
しょーもない発言、しょーもない出来事、しょーもない本、しょーもない事件、
完璧じゃなくていい(ていうか無理だから)
でもしょうもない人間になっても得はない(徳はない)と、うちの子らには教えていきます。


はい、しょーもな(笑)

失敬。

noteではこのように、私の考えをオブラートに包まず徐に発信していこうと思っています。そしてそれをいつか、余裕のある頃に動画配信に繋げるのも面白いかもと考え始めています。その時はよろしくお願いしまーす。

では最後まで読んでいただきありがとうございました。


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