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始まりと終わり | 人生は不安ですか?

今日、という日は一度しかない。というのは当たり前。そんなもん、多くの人が言っています。「だから今日を最大限に大事に活用しましょう。」

人生もそう。YOLO(You Only Live Once = 人生は一度きり)、海外でも当然の概念です。あ、死後の世界観など宗教学的な視点は今は置いておいて。(それを大切にしている方には申し訳ありません。)


【今】を考えると、【終わり】を意識してしまうのは私だけでしょうか。
何かの始まりは、終わりの始まり。と考えてしまう私は結構ペシミストなんでしょうか?いや、現実主義者ですが。(なんやねん)

例えば私は趣味として、読書、映画鑑賞、アクアリウム、植物育成などなど色々ありますが、本も映画も終わりがある。新しい魚を買ってもいつかは死んでしまう。植物も(植物によりますが)私より寿命が短いもののほうが多いかと思います。

始まるのは、THE BEGINNINGは、ワクワクしますが、同時にTHE ENDを意識する私です。
でも始まった途端終わりを感じて打ちひしがれていたら、

「なんで始めたんw」

という事になるだけなので、始める事に躊躇はしませんし苦悩と共に開始はしませんが、終わりがあるという意識は頭の片隅にあって


その時が来るまで、精一杯この時間を愛そう


と思うのです。

出会いも一緒。いつの日か必ず別れはやってくる。
必ず?うーん、自分が先に死んだ場合は意識無いので(現実主義者です)急死の場合は死ぬ当人は「今別れたっ!」などと気づく事はできないでしょうが、別れは別れです。

生きている間に生じる別れにも色んな種類があると思います。
私は前回の記事で人に固執しないということを記載しました。
そんな私にも、大切な人はいます。大切にしている、思っている人はいます。

家族は最たるものですが、他にも少しはいます。
私に対して死なないでほしいと思ってくれている人が(稀有な人です)若干名います。
私はその人たちの為にも、今は生きていく。

思春期の頃、私の課題は『ナゼ生まれてきちゃったんだ』という問いでした。理不尽でしかない世の中に悪態ついて、私が憧れる愛のある生活を送っている人を妬み、一番側で理解して欲しかった両親に異物扱いされ、<自分>というアイデンティティ確立には苦難したというか、それは健康的な人が通る道で私の中学生や高校生初期は『いかに即死すべきか』という難題を解くのに必死になっているのを隠して生きている時代でした。

私がみんなと違うことが嫌で仕方なかった家族は私に怒りをぶつけました。生育を放棄され、金だけ与えられました。

当時(14、5才くらい?)は、発達障害という概念も知らなかったのですが、私は精神科に行って調べて貰わなければならない人間なんだと思って、でも未成年1人での通院には無理があった為親に精神科に連れて行ってくれと懇願しても拒絶されました。もっとも、当時は発達障害の理念もさほど先鋭的ではなかったので、通院しても誤診された可能性はありますが…。

大人になってから、インターネットの情報をきっかけに発達障害外来のあるクリニックを受診して、立派な(?)ADHDだということが判りました。

私のことを【いかに普通にするか】ということしか考えていなかった親の私への接し方は、発達障害児が受けるべきサポートとは真逆の行為でした。

幼少期から責められ蔑まれ続けて、自尊心ボロボロかというと正直


そのお陰でメンタル最強です。

セルフレジリエンス、最高。


このブログを読んでいただいている方はご存知だと思いますが、他にも生命の危機を感じる事件に遭ったり、外国に住んだり、リハビリに通うも精神状態悪化して他の精神疾患発症して入院したり、結構はじけた人生を送っています。
言ったことないと思うけど、精神科入院は閉鎖病棟で、身体拘束(6箇所以上)も複数回されましたし、保護室という牢屋の様なところにも1週間以上入れられた事もあります。
汚い古い精神科病院の保護室ほど、酷い環境は日本にはそうそう無いかもしれないです。
これは古傷を精算していた時期の話。今はもう、昔の話です。


だからこそ、と言いますか。私はキレイゴトは言わないで生きます。
自分の人生、起こってしまったことは取り消せないし残った傷は時折軋むけど、【今のありのままの自分】を受け入れ、表現し、前へと進み、進化していく。これはキレイゴトでしょうか?いいえ、本当のことです。

人はすぐに逃げます。現実から、自分から、課題から、過去から、将来から、今のことから、人から、苦手なことから、逃げるが勝ちみたいな。
そう考える人もそりゃいるでしょうよ。ですがね。
私は死ぬ時も、自分を貫いて良かった、他者の為に何かを犠牲にしなくて良かった、顔色伺って意思表示できない自分じゃなくて良かった、と思って死にたいんですね。
今も大事だし、終焉の時ももっと大事かも知れない。
それはいつ起こるかは分からない。だから毎日を一生懸命、自分らしく生きるだけです。

誰かと自分を比べることはそんなに大事なんでしょうか。
ナゼ人は、すぐに他人と比較したがるのでしょうかね。

不安なのでしょうか。

違いますかね。そこは人にもよるかも知れません。
比較で生まれる何か、には大した意味が無いように思います。

まあつまり何が言いたいのかというと…、ええやん自分らしく生きてりゃ。ってことです。
そして人がそれを何と言おうとも、それを華麗にスルーできるだけの確固たる自分を持っていることができれば尚ええやん。

自分の可能性を否定すべきではないと思うけど、仮に失敗したとしても嘆く必要はない。
失敗しようが思い通り行かなかろうが、そこから学ぶのが人間の可能性だと思うから。
失敗を恐れて逃げる人よりも、苦難を自力で乗り越えようとしている人はとても魅力的に見えます。

言うは易し?いやいや、そんな言葉に身を委ねていては勿体無い。(と思うのは私だけかもしれませんが。)

聖人君子になるのが目標じゃありません、私は。(まあもう、知ってると思うけども。)
そっち方面じゃないのよ、目指す方向性は。
終わりが来るその日まで、苦しみながらも山を登り続ける。例え頂上に辿り着く前に滑落しても、まだ歩けるならまだ登る。もう死んだなら死んだ。

私が強くいられるのは、家族の存在や、前述した数少ない理解者の方々の存在のお陰でもあり、心からありがたく思っています。

そのうちの1人との絆が深まった昨今、お別れが近づいていることを知りました。
詳しくは書けないけど。
それで終わってしまうのか、この縁は離れても続き深めていけるのか、それが楽しみです。(本当は凄く寂し過ぎる。)

そして近日中に、新しく出会いがあります。子どもの塾の英語の先生と気が合うみたいで、子どもを通してコミュニケーションをとっていたのですが、今度初めて会う事になりました。これもご縁でしょう。どうなっていくのか、ワクワクします。


今日は始まりと終わりの話をしました。
人それぞれの概念があって、いいと思うの。
だからこそ失敬なこと書いててもそんなに気にしないでくださいね。

そうそう、人から攻撃的と思えるような言葉吐かれた時、
例えば「お前は本当に碌でもない役立たずやな、消えてまえこのカス。」とか言われた場合、その瞬間はショックだったりムッとしたりするかと思いますが、一つ面白い乗り越え方があるのでそれをご紹介して今回の投稿を終わりにしようと思います。

「お前は本当に碌でもない役立たずやな、消えてまえこのカス。」

これを某NHKのうたのおにいさん・おねえさんが満面の笑みで美声で優しく歌っている姿を想像してみると凄くウケます。(少なくとも私は。)
最後に「そうだったらいいのにな〜♪そーうだったらいいのにな〜♬」と付け加えても良いでしょう。


というわけでお粗末さまでした。
また来てね。

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