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30年日本史00744【鎌倉末期】尊雲法親王の妙計

 幕府は後醍醐天皇の配流を決定しましたが、この情報をいち早くつかんだのは、比叡山延暦寺のトップ・天台座主を務める尊雲法親王でした。尊雲法親王は父・後醍醐天皇に対し、京を捨てて逃げるよう勧めます。
 このとき尊雲法親王が立てた作戦は驚くべきものでした。天皇を比叡山以外の場所に逃がしておいて、比叡山が囮になるというのです。この計画はトップシークレットとされ、延暦寺の中でも知らされている者はごく僅かでした。天皇はこの計画に乗ることを決めました。
 元弘元/元徳3(1331)年8月24日、後醍醐天皇は粗末な恰好に身を包み、奈良へ逃亡しました。その一方で、天皇の側近・花山院師賢(かざんいんもろかた:1301~1332)が天皇に扮して比叡山へと向かいました。花山院師賢の行列はひどく豪華で、見る者の目を欺くには十分なものだったといいます。
 天皇が御所を離れたことは、その日のうちに発覚しました。六波羅探題北方・普恩寺仲時(ふおんじなかとき:1306~1333)は関東申次・西園寺公宗(さいおんじきんむね:1310~1335)を問い詰めますが、なかなか口を割りません。
 そこに思わぬ情報がもたらされました。比叡山延暦寺の僧・浄林坊豪誉(じょうりんぼうごうよ)が
「帝は延暦寺に来られた」
と知らせてきたのです。延暦寺の中にも、少数ながら鎌倉幕府に通じているスパイがいたのですね。とはいえ、前述のとおり比叡山は囮であり、豪誉は偽情報に踊らされていたのです。
 その頃、奈良の東大寺に到着していた後醍醐天皇でしたが、東大寺の中にも幕府方の人間がいることが分かったため、8月27日、そこから笠置山(かさぎやま:京都府笠置町)へと逃れました。笠置山に着いた天皇は
「憂かりける 身を秋風に 誘われて 思わぬ山の 紅葉をぞ見る」
と詠みました。
「予想もしなかった経緯で、こんなにもきれいな紅葉を見ることができた」
とは、ずいぶん余裕を感じさせる歌ですね。
 本物の天皇が笠置山にいることを露も知らない普恩寺仲時は、さっそく軍勢を繰り出し、比叡山を攻めることとしました。8月27日、比叡山に向かった六波羅勢に対し、延暦寺の僧兵たちは琵琶湖沿いの唐崎浜(滋賀県大津市)で迎え討ちます。
 鎌倉幕府滅亡に向けた第一戦、唐崎浜の戦いの始まりです。

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