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30年日本史00870【建武期】湊川の戦い 本間重氏の遠矢

 楠木正成が兵庫に到着すると、新田義貞はさっそく対面して
「帝の御様子はいかがであったか」
と尋ねました。正成がこれまでの経緯を説明すると、義貞は
「なるほど。敵の大軍と戦って勝利するのは困難だが、一戦もせず京へ退却するのはあまりに不甲斐ない。今は勝ち負けのことは考えず、ひたすら忠義を尽くすことを考えよう」
と合点しました。この言葉を信じるならば、義貞も正成も敗戦を最初から覚悟していたことになります。
 さて、延元元/建武3(1336)年5月25日朝8時、いよいよ足利勢の船が沖合に姿を現しました。海上を埋め尽くす船の数に新田・楠木軍は圧倒されました。
 太平記には、脇屋義助率いる5千騎、大館氏明率いる3千騎、楠木正成率いる700騎、新田義貞率いる2万5千騎が海岸線で待ち受けたとの記述があります。楠木軍があまりに少ないのが気になりますね。
 両軍が対峙したところで、後醍醐方の中から本間重氏(ほんましげうじ:?~1336)が和田岬(神戸市兵庫区)に進み出て、
「足利将軍に余興をお見せいたしましょう」
と言って矢を射かけました。
 その矢はなんと、魚を捕まえて飛び去ろうとするミサゴに当たり、ミサゴは足利方の大友軍の船の上に落ちました。一同は本間の矢の腕に驚きます。
 尊氏が
「この剛力の者の名を知りたい」
と述べたため、尊氏側近が大声で遠くから本間に名を尋ねますが、本間は
「ではこの矢で我が名をご覧ぜよ」
と言って、さらに矢を射かけました。その矢は足利方の鎧武者を射通しました。
 尊氏が矢を手に取ると、「相模国住人、本間孫四郎重氏」と書かれていました。本間は
「ただでは名乗らないぞ」
という矜持を示したのでしょう。
 さらに本間は遠くから
「矢をこちらに返していただきたい」
と呼びかけます。これは
「自分と同じくらい遠くまで矢を飛ばせる者はいるのか。どうせいないだろう」
という挑発です。

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