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30年日本史00435【平安後期】嘉応の強訴 清盛の上洛

 騒動が治まったかに見えた嘉応元(1169)年12月27日。後白河は突然、天台座主の明雲(みょううん:1115~1184)を
「僧兵らを制止せず、肩入れした」
という理由で、高倉天皇の護持僧の役から外しました。比叡山に対する復讐に打って出たのです。
 さらに12月28日には、4日前とまるで真逆の裁定を出しました。藤原成親を召還し、平時忠を
「事実でないことを奏上した」
という罪で、解官・配流することに決定したのです。明らかに、自らの命令を履行しなかった平家への意趣返しでした。
 12月30日には成親は権中納言に戻され、翌嘉応2年(1170年)1月5日には、時忠の後任として検非違使別当にまで就任してしまいます。
 このような人事に、比叡山が黙っているわけがありません。僧兵らが再び強訴にやって来るのは必定でした。
 ここで事態の収拾に動いたのが清盛でした。1月17日に重い腰を上げて上洛した清盛は、一体何をどう調整したのか分かりませんが、あっという間に事件を解決させました。
 というのも、その日のうちに、成親は検非違使別当の辞任を申し出て、僧兵たちの強訴は行われずに済んだのです。明確な記録が残っているわけではありませんが、おそらく清盛が成親を説得したものと思われます。
 この後、清盛が引き連れてきた兵たちが六波羅に集結し、都の人々は
「再び戦が始まるのではないか」
とヒヤヒヤして事態を見守っていたのですが、2月6日、藤原成親の解官と、平時忠の召還という人事が発表され、事態は完全に収束しました。おそらく、半月に渡って清盛が後白河と比叡山の双方を説得し、
「藤原成親を流罪にはしないが、解官とする」
という妥協案でもって調整をしたのでしょう。
 後白河は強訴に対して極めて強硬な態度で臨み、比叡山を抑えようと試みたわけですが、一旦は比叡山の主張を認め、すぐにそれを撤回するという混乱を見せただけでした。事態は福原から上洛した清盛が両者を妥協させることで収束させたわけで、清盛の圧倒的な権力を見せつける結果となりました。

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