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30年日本史00945【南北朝初期】畑時能の戦死

この連載、いつも「読者層をどの程度に想定するか」で迷いがあります。例えば「越前」という地名が出てきたときに、カッコ書きで(福井県)と書くべきかどうか。この連載を読む人なら、越前=福井県ということを知っている人の方が多いんじゃないかとか。
結局、はっきりしたルールは決めず、適当に気分で補足したりしなかったりします。

 越前情勢に話を戻します。
 越前では義貞の戦死があったものの、どうにか南朝方が有利に戦いを進めていた旨をお話ししましたが、「太平記」によると、その後1年足らずで再び北朝方が逆転しました。興国元/暦応3(1340)年9月13日、斯波高経率いる幕府軍は越前府中を陥落させ、南朝方は僅かに畑時能が鷹巣城(福井県福井市)に籠もっているだけになっていました。
 斯波高経と高師重率いる北朝方にとっては、あとはこの鷹巣城を陥落させるだけでしたが、猛将・畑時能が守るこの堅固な城を攻めあぐねていました。というのも、畑時能は幼い頃から相撲が強く坂東8ヶ国では並び立つ者がいないというほどの力持ちである上、乗馬や弓矢も相当な腕前だったそうです。また、この畑の家臣の中には、悪八郎(あくはちろう)という怪力の持ち主がいることも有名でした。
 さて、斯波軍の中にいた上木家光は、元々は新田家の家来だった者が心変わりして足利方についたという経歴の持ち主でした。そうした経歴のせいか、斯波軍の内部で
「上木は畑に内通しているのでは」
との噂が流れ始めました。上木はこの噂を悔しく思い、興国2/暦応4(1341)年2月27日早朝、自軍だけで鷹巣城を陥落させようと攻め始めました。
 しかし鷹巣城ではこの攻撃を予期していました。上木勢が崖を登り始めると、城内にいた悪八郎が大きな岩をそこに転がしたので、上木勢は次々と死傷していきました。
 斯波軍の上木勢がバタバタとやられている今こそ敵を蹴散らかすチャンスだと考えた畑は、10月21日、主だった者16名で城を出て、山道に身を潜ませました。
 一方、斯波高経はまさか小勢である鷹巣城の兵たちが分散して城外に出てきているとは夢にも思わず、3千騎で城を攻め始めました。
 畑時能は敵が近づくまで身を隠したまま潜んでいました。敵がいよいよ近づいたところで、16名で飛び出していき、
「畑将軍はここにいる。斯波尾張守はどこにおいでか」
と叫んで大軍の中に斬り込んでいきました。奇襲を受けた斯波軍は大混乱に陥ります。
 結果、なんと16騎の畑勢は見事3千騎いる斯波軍を撃退しました。とはいえ、畑勢もまた5人が死亡し9人が重傷という被害を受けました。
 10月25日。新田四天王の一人・畑時能はこのときの矢傷がもとで死去しました。「太平記」では、畑の勇士ぶりを讃える記述があったかと思うと、死の場面では
「人の道に外れた無法者であり、天罰が下ったのだ」
などと書いてあり、一貫していません。多くの作者がバラバラに著したためでしょう。

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