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どうする家康 第37回「さらば三河家臣団」

途中で「最終回かよ」と思うような内容でしたね。振り返っていきましょう。

北条氏政、また茶漬けを食う

小田原北条氏の4代目、北条氏政がまたもや茶漬けを食っていましたね。
何度か説明した話ではありますが、一応もう一度お話しておくと。

3代目の北条氏康は、氏政がご飯に味噌を何度も何度もかけているのを見て、
「北条家も儂の息子の代で終わりか。かける味噌の量すら推し量れない者が、領地・領民のことを推し量れるわけがない」
と嘆いたといわれています。
このせいで、「真田丸」以来、大河ドラマでは北条氏政が登場するたびに味噌掛けご飯とかお茶漬けを食べるシーンを入れているみたいです。
「どうする家康」だけでも、もう3度目じゃないかな・・・?

小田原攻め

北条氏政は弟・氏規を上洛させ、秀吉との交渉に当たらせていました。
しかし、沼田(群馬県沼田市)の領有権をめぐっての真田家と北条家の交渉は上手くいきません。

そうこうするうちに、北条家の家臣が名胡桃城(群馬県みなかみ町)に攻め入ってしまい、明確に秀吉の惣無事令(そうぶじれい)に違反することとなりました。惣無事令とは、
「もう戦を起こすなよ」
という命令のことです。

ここに来て遂に、秀吉は北条討伐を決めます。
家康は次女を嫁がせていたこともあって、北条家に秀吉との和睦を仲介しようとしていたのですが、その試みは失敗に終わりました。

秀吉方は20万、対する北条方は5万。
20万とはすごいですね。関ヶ原よりも大人数です。

小田原城では連日、秀吉に降伏するか否かを話し合いますが、何も決まらないままいたずらに日数を空費してしまいます。そこで生まれた慣用句が
「小田原評定」
ですね。何も決まらない会議のことを指します。

秀吉は笠懸山に「石垣山一夜城」と呼ばれる城を築きます。小田原城から箱根湯本の方に車で10分ほど行った場所です。
小田原城からは見えないようにこっそり作っておいて、完成後に一挙に木々を伐採することで、北条家からはたった一夜で完成したように見えたのです。

これは北条家の戦意を喪失させるには十分だったでしょう。

その後の北条家

ドラマでは描かれませんでしたが、北条氏政・氏直父子が切腹と決まった(氏直はその後助命されるも、男子を残すことができないまま病死)一方、氏政の弟である氏邦・氏規は生き残ることができました。
この氏規の子孫が河内狭山藩主(大阪府大阪狭山市)となり、幕末まで大名として生き残っています。

その後の織田信雄

ちなみに織田信雄が国替えに不満を示したため改易(クビ)となった、という話が紹介されましたが、織田信雄はその後どうなったのか。

彼は秀吉からさんざんな目に遭ったのに、秀吉の死後も豊臣家に尽くすことで何とか許してもらおうと考えました。
しかし、そもそも政治的センスがないらしく、関ヶ原では石田三成方について敗北。
さらに大坂城と江戸幕府との間で対立が深まると、大坂城に入って豊臣家を支えようとしました。
ところがその後、大坂方の茶々(淀君)の強硬ぶりに愛想を尽かし、遂に大坂城を出奔して徳川方につきます。最後の最後でようやく正しい判断をしたのですね。
大坂の陣で徳川方についた功績が認められ、織田信雄は大和松山藩主(奈良県宇陀市)となりました。わずか3万石ではありますが、大名に返り咲いたのです。

江戸への国替え

家康の人生は忍耐の連続でしたが、これこそが最大の忍耐だったかもしれません。
まさかまさかの、江戸への領地替えを命じられてしまったのです。

この命令は、「小田原城に向かって秀吉と一緒に立小便をしながら伝達された」といわれていますが、史実かどうか怪しいものです。

この時代における江戸は、とんでもない湿地帯で、農業生産どころか人が住むことすらおぼつかないド田舎でした。
家臣団たちはそれはそれは涙ながらに領地替えの屈辱を呑み込んだのだろうと思います。

ところが、この江戸入りがその後の日本を決定付けるのです。

伊奈忠次、江戸をつくる

伊奈忠次は、日本史上最大の都市計画家といってもよいでしょう。
家康の命を受けた伊奈忠次は、人の住めない湿地帯であった江戸を、一大都市へと作り替えていきます。

江戸が湿地帯であった理由は、日本最大の流域面積を誇る利根川が江戸湾(現・東京湾)に流れ込んでいる点にありました。
この利根川がたびたび氾濫を起こし、周囲を水浸しにしてしまうのです。

そこで伊奈忠次は、利根川の経路を変え、銚子で太平洋に流れ込むよう作り替えてしまいます。現在の千葉県と茨城県の境界に沿った流れに変えていったのです。

さらに江戸の街並みを設計し、井の頭池から上水道を引き込み、住宅として整備していきました。現在、東京が日本の首都でいられるのは伊奈忠次のおかげなのです。

ただ、このドラマでは
「どうせ秀吉に関東への国替えを命じられてしまうだろう」
と、かなり早い段階で家康が読んでいたという設定になっていましたね。
本当にそんな読みが出来ていたのかどうかは分かりません。小田原で突然秀吉から江戸に行けと言われて、頭が真っ白になった可能性もあるんじゃないかな、と思います。

阿茶、初登場

家康の後半生を支える最重要の側室・阿茶が初登場しましたね。
家康の側室の中で特に重要なのは、
・前半生を支える於愛
・後半生を支える阿茶
の2人です。特に阿茶は政治的なセンスに優れ、家康にとっては本多正信と並ぶ政治的な相談役だったと考えられています。
ドラマ上も、他の女性とは明らかに異なるファッションセンスで、いかにもキャリアウーマンらしい描かれ方をしていましたね。

豊臣秀長死す

秀長の死は直接は描かれませんでしたが、多分今回で死んだと見てよいでしょう。
ちなみに大久保彦左衛門の回顧録『三河物語』では、
「秀吉が家康を殺そうと毒を仕込んだが、それを誤って秀長が飲んでしまった」
という「ほんまかいな」という死因が描かれていますが、歴史学者はほとんど信用していないようです。

秀長が早い段階で病死したことで、秀吉を止める者はいなくなりました。秀吉はここから明の侵略を企画し、暴走していくのです。

鶴松生まれ、そして死ぬ

秀吉は女好きで有名で、多くの女性に手を出したはずなのですが、なぜか妊娠したのは茶々だけです。それも2回も。
「おかしいんじゃないの?」
ということで、
「実は父親は秀吉ではなく、石田三成だ」
とか
「大野治長だ」
といった説が出ています。今回のドラマではそういう説は出さないようですね。

茶々が産んだ初子は「鶴松」と名付けられましたが、夭折しました。
次に産まれる2番目の子が、後の豊臣秀頼となります。多分次回取り上げられるでしょう。

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