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30年日本史00912【南北朝最初期】叡山への手紙

 延元2/建武4(1337)年7月21日。新田義貞は足羽城を攻めるべく、堀や溝を埋めるための埋め草や盾を集めました。もはや足羽城の陥落は時間の問題となりました。
 ところがこの段階になって、吉野の後醍醐天皇からこんな勅使がやって来ました。
「新田義興(にったよしおき:1331~1358)と北畠顕信(きたばたけあきのぶ:1320~1380)が敗残兵を率いて男山(京都府八幡市)に立て籠もっているところだが、これを逆徒が大軍で囲んでいる。義貞らの上洛が遅れると彼らの滅亡は必至だろう。そちらの合戦はひとまず措き、早期に男山に参集してほしい」
 義興は義貞の次男で、顕信は顕家の弟です。これを聞いた義貞は、やむなく足羽城の攻略を中止して急ぎ男山に向かいました。
 男山を目指す義貞に対して、児島高徳が言いました。
「先年の京での戦いの際、叡山に籠もる天皇方が敗れたのは、ただ北国の敵に道を塞がれて兵糧に困窮したためです。今回、男山を攻めるに当たっても、越前を放置してしまうと前回と同様の状況に陥ってしまうことでしょう。ですから、越前と加賀にある程度軍勢を残して、人数を減らして京に出向いてはどうでしょう」
 児島は越前・加賀は兵糧補給のために重要な拠点であると主張しています。そのためにあえて少人数で男山に乗り込むというわけですが、児島はさらに細かい気配りを見せます。
「ただし少人数で攻め入ったら、叡山の者たちは『新田殿の軍勢はこの程度か』と侮り、敵方に裏切る者が出てくるかもしれません。よって、まずは叡山に文書を送って、彼らの考えを聞いてみるのがよいでしょう」
 ここで突然、比叡山の名が登場して来ました。
 鎌倉幕府倒幕戦の際もそうでしたが、全国を巻き込んだ合戦では比叡山を味方につけた側が圧倒的に有利になります。比叡山の圧倒的な兵力と宗教的権威を利用せぬ手はありません。
 児島はその比叡山から裏切り者が出ないようにするため、兵を越前・加賀に残すことについて、比叡山にあらかじめ了解を得ておいたほうがよいと訴えたのです。
 これを聞いた義貞は
「実に思慮深い考えだ。では叡山に文書を送ろう」
と言って、児島に手紙を書かせました。
 このようなエピソードをわざわざ太平記が取り上げているのは、当時比叡山の存在感が非常に大きかったことを物語っています。

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