30年日本史00828【建武期】中先代の乱起こる
建武の新政が破綻していく中で、いよいよ足利尊氏が反旗を翻す場面を描かなければなりません。そのためには、尊氏反逆のきっかけとなった「中先代の乱」を描く必要があります。中先代の乱とは、北条高時の遺児・時行が一時的に鎌倉を占領した事件をいい、先代(北条氏)と後代(足利氏)との間に鎌倉を支配したことから時行は「中先代」と呼ばれているのです。
中先代こと北条時行は、鎌倉滅亡に当たって諏訪頼重に預けられ、諏訪(長野県諏訪市)で育てられました(00800回参照)。幕府滅亡時には7歳でした。
諏訪頼重は諏訪大社の宮司で、諏訪地方の住民から絶大な支持を得ていました。諏訪大社といえばタケミナカタを祀る社ですが(00088回参照)、諏訪一族はそのタケミナカタの子孫を自称しており、地元では絶対的な存在なのです。その頼重の養育下にあって、時行は十分な支援を受けられたことでしょう。
建武2(1335)年7月10日。9歳になった時行は諏訪で幕府再興を目指して挙兵しました。後醍醐政権の評判が予想以上に悪かったため、今こそ好機と考えたのでしょう。西園寺公宗反逆事件から1ヶ月足らずの出来事ですから、もしかすると京で捕らえ損なった北条泰家が諏訪にやって来て時行に挙兵を薦めた可能性もあります。
7月14日。時行らは最初に信濃守護・小笠原貞宗(おがさわらさだむね:1292~1347)がいる青沼(長野県佐久市)の守護所を襲撃しました。この緒戦には敗北したものの、翌15日にも福井河原(長野県千曲市)で戦い、勝利します。
ちなみに、この小笠原貞宗が属する信濃小笠原氏は、江戸時代には豊前国小倉(福岡県北九州市)の地を与えられ、代々小倉藩主を務めることとなります。この小笠原氏には武家の作法として立ち振る舞いや贈答の仕方が伝わっており、「小笠原流礼法」として江戸時代に有名になりました。戦後には小笠原家当主の小笠原忠統(おがさわらただむね:1919~1996)がたびたびテレビ出演などを通して小笠原流礼法を全国に広めました。現在は忠統氏の姉の孫にあたる小笠原敬承斎(おがさわらけいしょうさい:1966~)が宗家として礼法の普及に努めています。
小笠原貞宗は、この小笠原流礼法の中興の祖と位置付けられています。漫画「逃げ上手の若君」では目のギョロっとしたしぶとい敵キャラとして登場しますが、実際には伝統と礼式とを重んじた文化人だったのですね。
時行にとって信濃守護・小笠原貞宗との戦いは最初の障害でしたが、実はこの戦いには時行の属する本軍はおらず、別動隊しかいなかったといわれています。というのも、時行の目標はあくまで鎌倉を陥落させることでした。時行は鎌倉目指して信濃国から上野国(群馬県)に入っていったのです。
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