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30年日本史00010【旧石器】登呂の鬼、杉原荘介登場*

 昭和24(1949)年8月1日に芹沢に届いた相澤からの返信は、他の話題に触れた上で、末尾にこう書かれていました。
「尚、江坂氏宅にて話した中石器と思われる石器は、其の後の調査で全然ちがう事がわかりましたので、ていせい致します。江坂氏にも此の事を良く貴殿よりつたえてください。まったく私のあやまりからです。よろしくていせいお願い致します」
 なんと、以前芹沢に話したことは全て誤りだったから、忘れてくれというのです。
 相澤は明らかに芹沢を警戒しています。いや、芹沢というよりも江坂を警戒しています。
「芹沢さんは、きっと江坂先生に中石器のことを話してしまったに違いない……間違いだったということにしないとまずい」
と、そう考えたのでしょう。これら相澤と芹沢がやり取りした葉書は、現在岩宿博物館で展示されています。当時、アマチュア考古学者がどれだけ大学の研究者との接し方に苦労していたかを示すエピソードですね。
 8月2日。芹沢は相澤の警戒心を読み取り、中石器の話については触れずに、家に是非来てほしいと書き送りました。これを受けて、相澤は「どうやら江坂先生の耳にはまだ入れていないらしい」と安心します。
 8月9日。上京した相澤は芹沢宅を訪問し、岩宿で発見した石器を見せました。芹沢は驚嘆をもってこれを迎え、
「これは今までの常識をくつがえす大発見だ」
と述べました。そして相澤に
「この大変な事実を君が大切にしていることは私にもよくわかります。その大切な夢はこわしませんから、一度、現地を案内してくれませんか」
と依頼しました。これを受けて、相澤は芹沢に全てを託すことを決意します。現地を案内する約束をした上で、岩宿で出土した石器の一切を芹沢に預けて帰宅したのでした。
 9月2日。芹沢は再び相澤に上京を促します。芹沢の師である杉原荘介(すぎはらそうすけ:1913~1983)助教授が、久しぶりに明大に帰ってくるので、紹介したいというのです。杉原は登呂遺跡(とろいせき:静岡県静岡市)の発掘主任を務めており、この時期、明大にはなかなか帰って来れない多忙な日々を送っていました。
 杉原は「明大の学生は、他学が1メートル掘るとこを2メートル掘れ」と怒鳴るような厳しい軍隊式の発掘指揮で、「登呂の鬼」と恐れられていました。とにかく気に入らないことがあるとすぐ怒鳴る、激しい気性の持ち主だったようです。
 杉原については、よく知られたエピソードがあります。登呂遺跡の発掘で、地元農家に支払う作物の補償額を決める際、杉原は農家の人に酒を飲ませ、酔わせて正常な判断力を奪ってから補償額を決めていたというのです。かなり豪胆な人物だったようですね。
 9月8日。相澤は明大の考古学研究室を訪れ、杉原に面会することとなります。

群馬県みどり市の岩宿博物館。私が行ったときは芹沢氏と相澤氏がやり取りしたハガキが展示されていたが、今も展示されているかどうかは不明。

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