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30年日本史00846【建武期】北畠顕家出陣

 建武3(1336)年1月12日。比叡山延暦寺に逃れた後醍醐天皇の元に、嬉しい情報が入りました。2年前に奥州に送り込んだ忠臣・北畠顕家が尊氏を討つべく戻ってきてくれたというのです。
 ここで、北畠顕家のこれまでの動きを見てみましょう。
 北畠顕家は、元弘3(1333)年10月20日に京を出発し、父・親房とともに義良親王(後醍醐天皇の七男)を奉じて奥州へと向かいました。11月には陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に入り、鎌倉から流れて来た北条氏の残党を次々と捕縛しました。
 この頃、顕家に随行した者のうち最も活躍していたのが南部師行(なんぶもろゆき:?~1338)です。南部氏は元々甲斐国(山梨県)の南部を拠点とする豪族でしたが、頼朝の奥州藤原氏討伐に同行して、そのまま陸奥に土着したのです。
 さらに南部氏は顕家とともに多賀城で残党狩りをしているうち、顕家からさらなる奥地の鎮圧を命じられ、糠部郡八森(青森県八戸市)に城を建て、そこを拠点としました。師行はここを敵鎮圧の根本としたいとの考えから「根城(ねじょう)」と名付けたと言われています。現在、根城は日本百名城の一つとされ、八戸博物館前には南部師行の銅像が建てられています。
 現在、青森県東部から岩手県北部にかけた一帯を「南部地方」と呼び、この地域の特産品を「南部鉄器」と呼ぶのは、このあたりに南部氏が土着したためなのですね。
 さて、中先代の乱を鎮圧するために足利尊氏が鎌倉に入ったことを、親房・顕家父子はひどく警戒していました。後醍醐天皇への忠誠心の旺盛な親房・顕家父子は、朝廷が尊氏に従二位を与えることについても反対しましたが、聞き入れられませんでした。
 再三の要請にもかかわらずなかなか鎌倉から帰って来ない尊氏は、なんと建武2(1335)年8月、斯波家長(しばいえなが:1321~1338)を奥州総大将に任命してしまいます。奥州総大将とはこのとき初めて創設された役職で、要するに後醍醐天皇が派遣した北畠顕家らのいる陸奥将軍府に対抗するためのものですから、これは天皇への反逆と解釈されても仕方がないでしょう。ちなみに奥州総大将は後に「奥州管領」という名称に変わります。
 当時まだ14歳だった斯波家長は斯波館(岩手県紫波町)に派遣され、これまた北条の残党の討伐に活躍します。
 北畠と斯波、それぞれが相手をライバル視しながら残党狩りをしているうちに、建武2(1335)年11月8日に鎌倉の尊氏が朝敵となってしまいます。
 ここに、朝敵尊氏を討つべく顕家は遂に立ち上がったのでした。

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